ヨセミテクライミングの黎明期に
この地を訪れ、ガイドとして、
非営利団体「ヨセミテクライミング
アソシエーション(YCA)」代表として
ヨセミテに関わり続けるケン・ヤガー。
「レンジャーとクライマーを
仲良くした男」と言われる、
ヨセミテと共に生きる男の取り組み。
ヨセミテと共に
サクラメントの近くの町、デイビスで育ちました。1971年にクライミングを始め、最初にヨセミテを訪れたのは翌年。13歳の時です。エルキャピタンの麓で車を停めてもらい、大岩壁に触れて仰ぎ見た時「登りたい」と思いました。
それから4年間、エルキャピタンに登るためにトレーニングを積みました。ウォレン・ハーディングに出会ったのは16歳の誕生日でした 。運転免許を取ったばかりで、彼をヒッチハイカーとして乗せたのです。もちろん彼の名前は知っていました。彼はキャリアの最後の時期だったのであまり難しいルートは登っていませんが、一緒にたくさんクライミングをしました。
1995年頃から約12年間、ヨセミテマウンテンスクールのガイドとして働きました。多い時は一年に6回もお客さんを連れてエルキャピタンに登りました。仕事でクライミングができたし世界中の人々と出会うことも大好きだったのでまさに天職でした。クライミングコミュニティーに何か恩返しがしたいと、2003年に「YCA」を設立しました。主な活動はヨセミテのクライミングの歴史物を保存することと「ヨセミテフェイスリフト」を組織することです。
収集されたアイテムはクライミングギアだけでなく、クライミング黎明期の写真や手書きもメモなども多い。当時のクライマーの様子を知るための貴重な資料である。クライマーであり写真家でもあったグレン・デニーの写真なども保管されている。
クライミングミュージアムという夢
26年間、歴史的なクライミングギアを集めています。年上世代の多くはこの世を去ろうとしています。彼らが亡くなると家族はギア類を捨ててしまうことが多い。彼らからギアやメモ、写真などを寄付してもらい、多くのインタビューをして彼らの人生に耳を傾けました。
蒐集した10,000以上のアイテムはガレージに保管しています。 ほとんどのギアは個人的なコレクションになることが多く、結局どこかへ行ってしまう。私はヨセミテバレー内にクライミングミュージアムを作りたいと思っているのです。
国立公園内にミュージアムを建設するのは無理だと、何年も前から言われてきました。しかしようやく国立公園を管理するパークサービスとの会議にこぎつけました。パークサービス側はミュージアムへ関心を寄せています。その理由は、ヨセミテにとってクライミングがとても大きな存在になったからです。アレックス・オノルドやトミー・コールドウェルの映画が上映され、メディアでたくさん取り上げられたことも一助になっています。今はまさに絶好のタイミングなのです。うまくいけば1年半でその夢が実現するでしょう。
「ノーズ」初登時に使われた巨大なピトン。ストーブの脚から作られたため、このピトンが使われた。クラックは「ストーブレッグクラック」と呼ばれる。
ヨセミテのレスキューチームにも所属したスコット・コールから寄付された木製プロテクション。パタゴニア、セロ・トーレで発見された。
若かりし日のウォレン・ハーディング。1958年にエルキャピタンを初めて登り、そのルートを「ノーズ」と名付けた。
クライミングエリアのゴミ拾いから
ある日、お客さんを連れてクライミングへ向かう途中、大量のトイレットペーパーのある場所を通り抜けなければなりませんでした。私は非常に動揺しました。しかしそのゴミをランチと一緒に自分のバッグに入れるはずもありません。どうしてこんな人がいるのか信じられませんでした。
ある日、私の心にちょっとした変化が起こりました。気分を良くするためにポジティブなことをしてみようと思ったのです。ビニール袋、 安全ベスト、ゴミ拾いばさみを用意し、私がしたいことをキャンプ4にいたクライマーに話しました。みんな私の考えに賛同してくれ、トラック約40台分のガレキやゴミを拾いました。ゴミを拾いながらみんなで過ごした時間は信じられないくらい楽しかった。本当に気分が良かったし、私はゴミ拾いが他の人々とつながるための素晴らしい方法であることに気付きました。
ヨセミテフェイスリフト
15年前からクリーンアップ活動「ヨセミテフェイスリフト」を企画しています。感動するのは、せっかくヨセミテまでクライミングのために来ているのに、貴重な休みの数日を清掃活動に当ててくれること。それは本当に私の心を温めてくれます。だから私は途方もない作業を行い、毎年フェイスリフトを開催するのです。
フェイスリフトには誰でも参加できます。 80歳の高齢者もいれは子どももいます。40%ほどがクライマーです。1時間だけ掃除してクライミングに行くのでも結構。ちょっと時間をかけてくれるだけで良いのです。
毎年9月末に企画しています。夏が終わるとたくさんのゴミが出ますから。今は5日間行なっています。日を追うごとにどんどんエネルギッシュになり、みんな幸せそうな笑顔になっていく。ビジターセンターの前に集められたゴミの山がどんどん大きくなっていく様子は本当に驚きです。
日中は頑張って掃除し、夜は音楽や美味しい食べ物やビール、スポンサーメーカーからの協賛品の抽選をしたりと楽しい内容を考えています。2018年はアレックスの『Free Solo』を上映しました。
パークサービスとクライミングコミュニティー
長い間、我々ダートバッグなクライマーはパークサービスからよく思われていませんでした。理由はいくつかありますが、1970年代に暴動を起こしたヒッピーと同一視されたり、 一日中クライミングするのを疎まれていました。パークサービスはクライマーを押さえつけ、我々も反発してはエスカレートすることもありました。
フェイスリフトはパークサービスとの良好な関係を築くのに役立っています。公園当局は公園内の清掃が必要だと感じていたからです。私たちは100万ポンド以上のゴミを拾いました。YCAでは他にもたくさんのプロジェクトをやっていて、今はクライミングのアプローチ道の整備も許されています。私たちクライマーはより積極的に公園管理に関わることができるようになるかもしれません。公園管理に関わっていなければ発言権はなく、将来的にクライミングができなくなる可能性もあります。
私は長年にわたりパークサービスがクライミングコミュニティーにとっていかに重要であるかを見てきました。パークサービスも私たちが大きな影響力を持っていると認識しています。フェイスリフトには毎年3000人が参加するのですから。クライマーの存在は少しずつ大きくなり、公園の方針に発言できるようにもなってきました。パークサービスとクライミングコミュニティーが手を取り合い、今、お互いがより良い方向へと歩み始めているのです。
KEN YAGER
ヨセミテの入口にほど近いエルポータル在住。約60回ものエルキャピタン登攀歴を持つ。2015年、フェイスリフトの取り組みが評価され「Alpinist」マガジン「David R.Brower Coservation Award」を受賞。ザ・ノース・フェイスの「Walls Are Meant For Climbing」にも参加。
「大切なのは、
ひとつのクライミングスタイルに
固執するのではなく、
さまざまなクライミングを受け入れること」
ヨセミテのレジェンドクライマーが語る
クライミングという冒険とそのスタイル。
1970年代のヨセミテバレー
雨の多いカナダで育ちました。クライミングを始めた頃、スコーミッシュの大きな花崗岩壁で行われていたロッククライミングはスポーツではなくまさに冒険でした。登っていて危険を感じることもありましたがそれも楽しかった。今ならクライミングをしたいと思う人でも、当時だったら絶対登ろうと思わないでしょう。 最初にヨセミテを訪れたのは1970年代後半です。雑誌などでヨセミテの記事を見ていてようやくヨセミテに行くことができた時、私は世界で一番の幸せ者だと思いました。ヨセミテは世界で最も有名なクライミングのメッカでした 。誰もがそこに行かなければならなかった。私はヨセミテに行くために働いて、ヨセミテでは缶詰の豆とトルティーヤチップスなどで食費を節約しました。できるだけ長くいたかったのです。お金が底をついたら家に戻って仕事して、お金が貯まったらすぐにヨセミテへ戻りました。 当時、ヨセミテでは世界のトップクライマーたちがたくさん登っていました。私はすぐにビッグウォールクライミングに惹かれました。大きな壁での冒険は私の中にある最高のものを引き出してくれます。ヨセミテのルートは900mもあり、天気はカナダより格段に良い。それがとても魅力的で、シーズンになると毎年ヨセミテへ行きました。その後、カリフォルニアに移住して6、7年をヨセミテで過ごしました。 日中はシビアなクライミングをしていましたが、夜のキャンプ4はパーティーのような雰囲気でした 。それは本当に素晴らしかった。ドイツ人が遅くまで歌っていて世界中の言葉が聞こえます。滞在しているのは全てクライマー。まるで小さな国際世界でした。
フリーソロ
ある日、クライミングからの帰り道でのことです。もっと登りたかったので途中で車を降ろしてもらい、約180mあるルートをフリーソロしました。とても簡単なルートでしたが、それが信じられないほど楽しかったのです。子どもの頃に夢見ていた、空を飛んでいるような自由な感じ。ジャングルの木に登って生活する「ターザン」のようだと思いました。ロープもいらず短い時間でたくさん登ることができる。たちまちフリーソロの虜になりました。それから3〜4年間、簡単なフリーソロをたくさんやりました。それが特別なことではなく安全だと感じられるようになると、より難しいルートを登るようになりました。 「アストロマン(10ピッチ、5.11c)」をフリーソロしたのはとても暑い日でした。ショーツで登り、シャツも着ていなくて本当にターザンになった気分でした。髪も長かったですよ。ターザンほどハンサムではなかったですがね(笑)。壁には誰もおらず鳥と一緒に登っている気分で、それはロマンチックな夢のようでした。信じられない場所にいて、動物のように自然がホームだと感じたのです。 フリーソロをするほとんどの人はフェイスよりクラックの方がずっと安全だと言うでしょう。クラックは壊れにくいですが、小さなフレークをつかんだ瞬間、それが壊れたらお終いです。ヨセミテにある長いクラックはフリーソロに適しているし、上から歩いて下ることも可能です。簡単なルートをフリーソロする人はヨセミテにもいますがハイレベルな人はほとんどいません。アレックスはフリーソロの頂点にいます。彼のレベルに近いクライマーは他にいません
。アレックス・オノルド
彼とは何度も一緒に登っています。一緒にいると本当に楽しいです。最初に彼を見たときは厄介な若いクライマーだと思いましたが、エリートクライマーとしての役割に慣れてきて、今はずいぶん人柄が良くなりました。彼のクライミングが続く限り、エルキャピタンのフリーソロをはるかに超えていくでしょう。彼が非常に高いレベルでフリーソロを続けていることに驚いています 。エルキャピタンをソロした時は撮影もしていたのでプレッシャーが大きかったと思います。だから成し遂げたときは本当に嬉しかった。「世界の反対側にいるけど君の笑顔がここからでも見えるよ!」と彼に連絡しました。
彼は偉業を達成してもいつも「大したことではない」と言います。でもエルキャピタンをフリーソロした時は言わなかった。そして「これは大したことだからね」と言いました。彼は実際に存在するヒーローです。しかし、そのレベルでのフリーソロを続けてほしいとは思いません。私はただ、他人に左右されるのではなく自分が本当にやりたい事を楽しんでほしいと思っています。
クライミングスタイルの多様性
スポーツクライミングの考え方がヨセミテに紹介されたとき、多くのヨセミテクライマーはハングドッグしてムーブを探るのはインチキだと思いました。スポーツクライミングが人気になるとそのような伝統のあるヨセミテには未来がないように思われ、多くのクライマーが去りました。とうとうヨセミテのクライマーがスポーツクライミングを受け入れると、信じられないほど熟練したムーブを使う人々が現れました。そして大きな壁でさらなるビッグクライムがされるようになりました。
アレックスだってエルキャピタンのフリーソロのために何度もロープを使って練習しています。スポーツクライマーの考え方でアプローチしたのです。それはヨセミテでのクライミングの変化を物語っているのですが、同時に、朝日がエルキャピタンのてっぺんに当たって新しい一日が始まると言う風景は昔と変わりありません。何が重要であるかは時代によって変わるのです。
クライミングにはさまざまな種類とアプローチの仕方があります。自分のやり方以外は正しくないという考えは好きではありません。私は石灰岩のスポーツクライミングも大好きですし、ヨセミテのクライミングも楽しんでいます。ルートを開拓するときはグランドアップだったりラップボルトだったりします。私にとって大切なのは、ひとつのクライミングスタイルに固執するのではなく、さまざまなクライミングを受け入れること。より多くの異なるクライミングスタイルがあることは本当に良いことです。私がクライミングを始めたとき、クライミングは本当に危険なオーラを漂わせていました。しかし、今、小さな子どもがクライミングをしたいと言えば簡単に体験させてあげることができます。それはとても素敵なことだと思うのです。
PETER CROFT
1958年、オタワ生まれ、バンクーバー島で育つ。1987年、「アストロマン」「ロストラム」の継続フリーソロ、エルキャピタンやハーフドームなどビッグウォールでのワンデイ継続登攀や「ノーズ」のスピード登攀など歴史的偉業を成し遂げた。TNFアスリートクライマー。