SKIING DOWN THE STEEP FACE

AKIRA SASAKI

「白いキャンバスにラインを刻むなんてまるでアーティストになった気分だよ」ノルウェーのロフォーテン諸島にてPhotograph : Yoshiro Higai
モンゴルの氷河を攻める。これぞ佐々木明の真骨頂。自然が創り出したアートの一部になった瞬間、優越感と達成感は最高潮を迎えたPhotograph : Yusuke Hirota
スウェーデンで開催されたW杯でのターン。大回転種目で決勝2本目に進んだ唯一のアジア人として名を刻んだ。その記録は現在も抜かれていないPhotograph : Yoshio Takusagawa
アルタイ山脈Tavan Bogd国立公園にて。地球でもっとも温暖化の影響を受けない氷河を枕にして寝る静かな夜Photograph : Yusuke Hirota
「これからも氷の斜面を求めて世界を旅するだろう。なぜなら俺はレーサーだから」 モンゴルのアルタイ山脈にてPhotograph : Yusuke Hirota
モンゴル・アルタイ山脈を旅しながら見つけた斜面。この1歩1歩が至高のワンターンを生む。まるでレースでの勝利に匹敵する達成感だPhotograph : Yusuke Hirota
急な斜面を滑ることも、細いラインをチョイスすることも、レーサーとして生きてきた佐々木にとっては自然なスタイルPhotograph : Yoshiro Higai

Interview with AKIRA SASAKI

オリンピック4大会に出場、W杯の表彰台に3回上った経験を持つ、日本アルペンスキー史上最高のスキーヤー佐々木明。ダイナミックで思い切りの良い滑りで、日本人ばかりでなく、スキーの本場ヨーロッパの人々をも虜にした道産子スキーヤーだ。現役を退いた37歳の彼が向かう先は、人間の管理が届かない原生の雪山。天下無双のライディング、そのルーツは幼少期からのファミリースキー体験にあった。
「はじめてスキーを履いたのは3歳のときでした。ぼくは4人兄弟の末っ子で一番上の兄とは10歳離れていて。母親はスキーが大好きでインストラクターをやっていました。その影響で冬になると兄弟はみんなスキーで遊んでいました。はじめて出た大会は、たしか5歳の町民大会でしたね」

「はじめてスキーを履いたのは3歳のときでした。ぼくは4人兄弟の末っ子で一番上の兄とは10歳離れていて。母親はスキーが大好きでインストラクターをやっていました。その影響で冬になると兄弟はみんなスキーで遊んでいました。はじめて出た大会は、たしか5歳の町民大会でしたね」

中学生になると北海道選手権などで優勝を重ね、全国区の選手としてめきめき頭角を現してきた。
「成績はどうでもよくて、スキーをやっていたらいろんなところへ連れて行ってもらえて、いろんな風景を見られるだけで楽しかったですね。実は俺、建築家になりたかったんですよ。うちはとうちゃんも姉ちゃんもみんな函館工業高校出身の建築士で、当然俺もそこに通うと思っていた。どこの学校に通ってもオリンピックには出られると思っていたから。だけど、気づいたら入学願書の提出期限が過ぎていた。願書を出し忘れて、いまがある(笑)」

高校を卒業した佐々木は、親元を離れ東京の大学に籍を置きながら日の丸を背負ってアルペンレーサーとしての道を歩みはじめた。
「東京へ出てきたら梅雨はあるし、夏は暑くてやばい。もう無理って思って夏はアルペンスキーの本場オーストリアで合宿すると宣言して、ひとりで安いチケットを探して、飛行機に飛び乗りました。合宿するっていうのにツインチップの飛びの板1本持って(笑)。で、夏が終わって日本へ帰ろうとしたら、その航空券は片道チケットだった。片道チケットで帰れないというのもカッコ悪いから、日本に電話して、『俺スキーで強くなるにはこっちしかない』ってもっともなことを言って。ワンウェイチケットだったおかげで、スキー王国のオーストリアに19歳から32歳まで13年間住むことができたんです」

怪我を恐れて敬遠しがちなフリーライドスキーにも積極的に取り組む佐々木は、サムライレーサーとして世間に知られていくようになっていった。
「当時から遊びのスキーは、常に車に積んでいましたね。スキーのチューンナップをしてくれるサービスマンが俺の遊び用のスキーを必ず履いていて、いつでもチェンジできる状況にしていました。すげー雪いいじゃん! チェンジ!って(笑)。でも、気持ち悪いですよね、レーシングスーツでパークに入るわけだから(笑)日本代表の合宿でそんなことやっていたらコーチに怒られる。だけど、19歳のときオーストリア人のコーチになってからは、そういう遊びも許されました。ヨーロッパでは当たり前のことでしたから。レーサーだっていい雪が降ればパウダーを滑る。『明日雪良さそうだな、山いく?』『お、じゃあ俺もいくわ』選手とコーチがこんなノリ。ただ、『明の場合は、フリーライドに寄りすぎているぞ』って釘を刺されましたけど(笑)」

ピリピリと緊張が張り詰める競技に生きるレーサーにとってフリーライドスキーは、リフレッシュする場所でもあったという。
「レースで負ければ、なにもできなくなるくらい悔しくて、吐きそうになって、涙がでるときもある。そんなとき何をするかといえば、結局スキーをしにゲレンデへ出かけているんですよね。スキーを足に付けた瞬間から、すべてを忘れてリフレッシュできる。そのとき自分にとってスキーは、とてつもなく大きい存在なんだと気づかされました」

ソチオリンピックを終え、32歳のとき現役生活にピリオドを打った。日本アルペンスキー史上最高の実績を持つ佐々木なら指導者になるなどアルペンスキーに携わるという選択肢もあっただろう。なぜ、これまでの功績を捨てて山スキーの世界へ飛び込んだのか? それは、ある出来事がきかっけだった。
「2009年にスキーヤーで山岳ガイドのだいちゃん(佐々木大輔)が、はじめて俺を雪山に連れていってくれました。シールを貼るとか、アルパイントレッカーをつけるとか、ビーコンを操作するとか、すべてはじめてのことだらけ。富良野岳にあるホコ岩シュートを滑りました。そのとき自分はまだスキーヤーのなかでレーサーが最強だと思っているわけです。スキーの最高峰でやってきた俺はレベルが違うよって。俺が一発目に滑りました。マックスのスピードでシュートに入った途端スキーが一切コントロールできなくなって、ハイサイド食らって、粘ったんだけど、ババッーって転んで、シュートの岩ギリギリのところを転がり落ちた。そのときに、だいちゃんがこう言ったんです。『アルペンスキーヤーってたいしたことねーじゃん』て。いままで俺にそんなことを言う人は誰ひとりとしていなかった。すごい不思議だけど、めっちゃくちゃ嬉しくなって。あ、俺まだまだ伸びるんだっていうのを感じました。それから山スキーの世界へ行こうって自分の中で決めたんです」

まっさらな斜面を転げ落ちたとき、アルペンスキーと山スキーの違いを明確に感じたという。
「富良野岳で滑って転んだとき、斜面を振り返ると白いキャンバスに汚いラインが描かれていました。レースって失敗しても、美しくなくても勝てばよくて。1本目で失敗しても2本目にアタックをかけて持ち直せるけど、山スキーは1発勝負。そしてラインは嘘をつけない。画用紙みたいに、じゃあもう一枚ってわけにはいかないんです。雪山の斜面を滑ることは、ものすごいシビアで、繊細で、アートな行為なんだと、そのとき思いましたね。山を滑ることって美しいことだなぁって」

山スキーの話になると佐々木明は少年のように目を輝かせた。はじめてスキーを履いたときのように。
「山に登っているときって辛いじゃないですか。俺なにやってんだろって。でも山のうえに立ったときに感動が味わえて、滑ることを考えたら恐怖が生まれてきて。恐怖を打ち消したり、葛藤したりして自分を沈めていく。ドロップするとアドレナリンがばーっと出て、瞬間的に自分でやるべきことにフォーカスしていく。だんだん心が解き放たれていって、イエスっ!って心の声が出て、ボトムに着いたときには安堵感に包まれる。人生の縮図が、ここにあるなって思いました。雪山はすべての感情がいっぺんに感じられる場所なんだなあと」

国内では敵なしのトップアスリートとして、かつての佐々木は過激な発言を繰り返し、肩で風を切ってきた。しかし当時の勇ましさはそこにはない。いたって謙虚で実直。佐々木大輔をはじめとする山岳スキー界で活躍する先輩に頭を下げて、雪山の技術を乞うている。
「いい山の先生がまわりにいっぱいいます。ほんと北海道に生まれてよかったなと思いますね。登攀技術はもちろん、滑り方も勉強になります」

山と対峙するスキーヤーは、雪山の厳しさを知っているからこそ謙虚にならざるを得ないという。
「山スキーはアルペンスキーの精神状態とはぜんぜん違いますね。恐怖しかない。滑り下りるってことではなく、滑ったあとにくる雪崩に対しての恐怖です。雪崩に巻き込まれた人の話を聞いたり、現に亡くなった人がいたり。そういうのもあって、雪崩のリスクが少ないカチカチのスティープな斜面を滑りたい。氷の斜面を滑ることは、アルペンレーサーの自分にしかできない表現方法だと思うから」

両親と兄弟が教えてくれたスキーと旅へでる楽しさが、いまの佐々木明を突き動かしている。AKIRA’S PROJECTというプロジェクトを立ち上げ、世界各地を旅しながら山に登り、滑っている。これまでノルウェー、モンゴル、谷川岳を訪れ、スキーの世界観を映像として発信してきた。旅先を自分で選び、自分にしかできない滑りを自由に表現する。そういった意味では佐々木は今この歳になって初めて表現という新たな旅のスタートラインについたとも言える。
「オリンピックやワールドカップに出ていても、旅という楽しみがあることは変わりませんでした。車中泊しながら両親が教えてくれたスキーと旅の組み合わせがブレたことは一度もない。プロジェクトの最後に谷川岳を持ってきたのは、やっぱり日本ってスペシャルだよねっていうメッセージ。海外生活が長かったから、俺は日本の山の良さをまだ理解していない。しばらくは谷川岳に向き合って、滑りたいと思っています。谷川岳一座だけ見ても、いっぱいラインがありますからね。○○沢初滑走という欲はなく、手垢がついた斜面でも自分が滑ったらどう表現できるか? そこにやりがいと喜びを感じています。寂しいのは、俺の滑りで沸かせる何万人という観客がいないことかな(笑)」

日本一の滑走技術を持つ男が、日本の雪山に挑む。ただ滑るだけじゃなく、人々を魅了するラインを描き、自分の生き様を表現するために。

  • Interview and Text : Shinya Moriyama
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