Notes on Islands
CHAPTER_2
Fisherman

船長で機関長で下働きだ

 島の人に話を聞く。漁師の竹谷博さん、68歳。3人兄弟の長男として、高校を卒業後「他人のメシでも食ってこい」と父に促されて大阪へ。約8年後、島へ帰郷した。自慢の船「栄光丸」は新造からおよそ30年。もちろん現役。年季は入ってるが、しっかりメンテナンスされていてピシッとしている。竹谷さんとこの海みたいに、無駄なく美しかった。
「船は新造で約二千万円よ。そりゃ大事に使うね。これが動かなくなったら、おマンマ食い上げだ。漁に出るのは朝4時半。魚は夜明け前が旬さ。狙うのはヨコワだね。マグロの赤ちゃんをこっちの言葉でそう呼ぶの。網なんて使わんよ。船に付いている2本の竿で引き縄釣りするんだ。大事なのは魚がかかったら、早く丁寧に糸をたぐって、船のイケスに入れてやること。養殖業者に売るための魚だから、傷がついたらダメなんだ。もしいっぱい釣れたとしても買ってもらえなかったら仕事にならんでしょ。それを全部、ひとりでやる。アシスタント? そんなんおらん。船長で機関長で下働きだ。大変よ(笑)。去年の記録は1日2航海で249匹。やっぱり、あと1匹欲しかったわなぁ」
 話を終えた後、サプライズだと言いながら、ヨコワとイカの刺身と、西ノ島名物の漁師料理、えり焼き鍋をふるまってくれた。美味、美味、美味。

Takuhijinja

火を灯し
祈りをささげる山

 西ノ島、中ノ島、知夫里島という3つの島からなる隠岐の島前。「焼火神社」はそのほぼど真ん中、西ノ島の最高峰焼火山の中腹にある。歴史は長い。記録によれば拝殿が約340年前に、本殿が約280年前に建立された。江戸時代の初期にあたる。しかしそれよりずっと前から、おそらくは島に人が暮らし始めた頃から、大切な場所だったようだ。信仰の対象となったのは、山と岩そのもの。岩窟から半分せり出すように建てられた、本殿の威容からもそれは明らかだ。
 人が何のために祈りを捧げたのか、訪れたならすぐわかる。駐車場に車を停め、傾斜のきつい参道を登ること20分。鬱蒼と繁る木々を抜け、重厚な石垣の脇を通り抜けると、眼下には一面の穏やかな海。その先では知夫里島まで見通せる。ここでかがり火を焚けば、きわめて有効な航海の目印となっただろう。事実、近代になって灯台が整備されるまでは、その役割を担っていた。例えば江戸時代後期に隆盛を極めた北前船。日本海から瀬戸内をつないだ西廻り航路の途上にあったこの島は、風待ち港として栄え、夜間航海の目標が焼火山の灯明とされていたのだとか。

HISTORY

島前の歴史はつづく

 今ではもう、この山で灯籠をともすことも少なくなってしまった。しかしそれでもなお、フェリーが眼下の岬を通る際には、汽笛を鳴らしていく。かつての名残りというよりも、受け継がれてきた信仰への敬意として。内海に響くその音は、この島の歴史の重みを今に伝えるものでもあるのかもしれない。
 そう、振り返ればこの島は何度も史上の舞台となってきた。古くは古事記の国つくり伝説。淡路島、四国につづいて三つ目にできたのが隠岐三ツ子の島だった。九州や対馬、佐渡よりも先。縄文時代の頃から人が住み着き、その営みを続けてきた。中世には後鳥羽上皇や後醍醐天皇などの貴人の流罪の地となり、暗く寂れて雨の多い場所という印象を生むようにもなった。一転、近世になると北前船の風待ちと補給のための重要な港として繁栄。今に伝わるさまざまな隠岐の民謡と、全国に散らばる焼火信仰は、その頃の豊かな往来の産物だ。

Tsurumaru

崖と巨岩と岩礁の
クルージング

 西ノ島の国賀海岸。海岸線を歩いて回っただけでは、その全貌を知ることはできない。海からも見なければ。船に乗らなければ。天気は快晴、海は青い。洒落たマリーナのような外観の、「隠岐シーサイドホテル鶴丸」で遊覧船クルーズに出た。
 桟橋から乗船し、内海から船引運河を通って外海へ。そこからは一気に風も波も強くなる。20ノットで滑らかに海岸沿いを進んでおよそ15分。ゴツゴツと異様に迫力ある海岸線が現れる。風雨に削られ、波に砕かれた崖、巨岩、岩礁。もちろんすべて自然の造形だが、それゆえに想像を絶する形と大きさがある。つけられた名前もどこかちょっと恐ろしげ。鬼の爪にかぶと岩、金棒岩、そして摩天崖。スピードを落として崖に近づくと、岩が覆いかぶさってくるような感じ。とにかくでかい。青い空は高いが、崖がそこまで届いている。
 海と空と波と岩。およそ1時間の船旅で見たものはそのすべてだった。

Radice

本格のイタリアンが
島にある

 遠くイタリアの水の都ヴェネチアで、かつてひとりの女子大生が衝撃を受けた。なんて美味しいのだろう、この魚介のパスタ。故郷で何度も見かけた食材なのに、その風味は想像のずいぶん先で、食べるほどに自然と笑顔になった。この瞬間、中ノ島出身、桑本千鶴さんの進路は決まった。イタリアンの料理人になる。果たして、菱浦港の目の前、実家のはす向かいにオープンした「ラディーチェ」はその成果だ。
 もちろん、2013年に開店するまでには長い修行の日々がある。松江、東京、フィレンツェ、そして再び東京。指折り数えれば10数年におよぶ。そうして鍛えた腕をふるって出される料理は、ちょっぴり豪快でされど繊細。隠岐の海が育んだ魚介はもちろん、知人の畑で採れた野菜など、地元の食材の魅力が勢いよく引き出されていく感じ。夜の営業はコースのみで、この晩のメニューは前菜、スープに、牡蠣と蕪のタリアテッレ、メインは隠岐牛のロースト、ドルチェとカフェ。最高でした。
 店名のラディーチェとはイタリア語で根っこという意味だとか。その名のとおり、桑本さんのルーツにどっかりと根をおろしたリストランテ。たぶん今夜もテーブルが6つのこじんまりとしたお店には、海とワインとオリーブオイルの香りが満ちている。

Fisherman

おすすめの料理?
わたしです

 島の人に話を聞く。居酒屋の女将、恩田美弥子さん。地元に愛されて21年目。「遊食亭みやこ」を切り盛りしている。料理自慢のお店ゆえ、どうやら杯はぐんぐん進む。気取りはないが、心の行き届いたメニューも豊富。さて、おすすめはどれ?
「そう聞かれたら、私でしょう!って言うね(笑) 。 でも、あえて言うならだし巻き玉子かな。みんなそれぞれ好みがあると思うから、お客様には食べたいものを食べて、飲んで、元気になって帰ってもらいたいの。明日も頑張ろう!って思ってもらえるようにね。このお店を始めた時は、80歳までやるぞって思っていたんです。でも、メニューも沢山あるし、やってみたら現実的に65歳が限界かなって気がしてたところ、一昨年にお店のリフォームをしてしまってね。そうしたら、せっかく綺麗になったのにもったいない。こうやって 毎晩お客さんも来てくれるし、ちょっとだけメニューを減らして、あと20年頑張ろう!って気持ちになってね。常連さんにはママもリフォームせないけん、なんて言われているけど、楽しくやってます(笑)」
 軽口。愛情ゆえの。その深さはカウンターの奥を見ればわかる。所狭しと並べられた、乙類焼酎のキープボトル。四合瓶は無数。さらに一升瓶(!)がざっと数えて数十本。間違いない。ここでは夜ごと愉快な時間が流れてる。無論、一見のお客さんもウェルカム。「全力でおもてなしします」。