SEAGEAR 2021 FALL & WINTER

セーラーたちの身を包むトップコレクション

冬の海は過酷だ。低温の海水が容赦なく降りかかり、凍てつく風で体感気温は人の想像を超える。そんな環境下で自らの身を守りながらも、最高のパフォーマンスを発揮しなくてはならない世界中のセーラーたちが信頼を寄せるプロダクトが、HELLY HANSENにはある。このSEAGEAR COLLECTIONは、私たちの使命そのもの。

KEELBOAT

Tactician GORE-TEX Race Jacket Tactician GORE-TEX Race Jacket (HH12050) ¥69,300

インショアからオフショアまで高いパフォーマンスを発揮できるセーリングジャケット。身生地には、GORE-TEX PRODUCTSの中でも優れた防水透湿性や耐久性を誇るGORE-TEX PROの3層構造を採用し、表側には耐摩耗性を高めるハイアブレーション加工を施すことで耐久性を向上させている。フロントには、フラップなしでも防水性が高いアクアシールファスナーを。袖口は、ダブルカフスで引っ掛かりの少ないフラットアジャスター仕様とし、塩噛みしにくい止水ビスロンファスナーを使用した両サイドのポケット、そして、フードのドローコードのバタつきを抑えるストッパーなど、海での快適性が向上するディテールを詰め込んだジャケットである。また、フラッシュイエローのフードや、SOLAS条約(海上人命安全条約)に準じたリフレクトサイト®のワッペンを設け、海上での視認性をしっかりと確保している。

SP Ocean Frey Jacket SP Ocean Frey Jacket (HH11991) ¥37,400

防水透湿性のあるヘリーテック® パフォーマンスの2層構造の生地を使用し、裏面にはドライライナー素材を用いるなど、海での快適性を追求した機能と、配色切り替えパターンに仕上げたことで、ファッション性も向上したデザインに。袖口のダブルカフスや裏起毛のハイネック設計で気密性を高め、保温力を備えている。Tactician GORE-TEX Race Jacketと同様、フラッシュイエローのフードや、SOLAS条約(海上人命安全条約)に準じたリフレクトサイト®のワッペンを設け、海上での視認性を考慮。擦れやすい裾部分には、コーデュラ®素材を配し、耐久性を高めたジャケットである。

DINGHY

Velocity 2mm Long John Velocity 2mm Long John (HH82152) ¥55,000

YAMAHA Sailing Team「Revs」の協力のもと、慣性センサーを用いた動作解析を実施。 セーリング競技における姿勢や可動域を特定し、抵抗が少なく、動きやすいパターン設計を開発し、 素材から縫製まですべてMADE IN JAPANにこだわり、日本人の体型に合わせた、動きやすさと快適性を追求したウェットロングジョンである。

ディンギーセーリングにおいて最適なパターンを再現するため、動作解析から割り出された前傾姿勢を促すパターンを設計。特徴的な補強切替(臀部)には、耐摩耗フィルムを重ねることにより、湿潤時などあらゆるコンディションでグリップ効果を発揮する。ハードなコンディション時にも水を効率よく排出するパンチングホールを腰と裾に搭載し、快適なセーリングをサポート。 高温シーンが想定されるプロダクトのため、光を吸収しにくいカラーである「ブラックグレー」を今季は採用した。初秋~春先にわたり着用できる汎用性の高い2mm厚で構成している。

Dry Suit II Dry Suit II (HH11960) ¥92,400

冬のディンギーレースの必需品となるドライスーツ。防水強度のある4層構造で、過酷な使用環境に耐えるだけでなく、通常のはっ水加工に比べて、海水を繰り返し浴びてもその性能が低下しにくくするなど、海水への耐久性を追求した。首元や袖口、さらに本体と一体型のソックスには天然素材で肌あたりの良いラテックスゴムを用いることで、海水の浸入を軽減。フロントジップには防水性が高く、開閉しやすい柔軟性のあるアクアシールファスナーを長く設計することで、より着脱しやすいデザインにしている。背面ウエスト部分をネオプレーン素材に切り替えたことにより、屈んだときの体の動きを追従した。

BE WITH WATER MAG

BE WITH WATER MAG GUEST VOL.3 KAZUHIRO NISHIMURA

HELLY HANSEN のブランドコンセプトである、「BE WITH WATER」~水とともにいきる~。そんなコンセプトを体現する人たちの活動や考え方を紐解いた先に、見えてくるものとは。西村一広氏を3回目のゲストに迎え、その魅力に迫ります。

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西村一広

KAZUHIRO NISHIMURA
東京商船大学(現・東京海洋大学)航海科卒業。ヨット専門誌『舵』編集部、ノース・セール社セール・デザイナーなどの職歴を経て、プロのセーラーとして独立。ジャパンカップ優勝、全日本マッチレース優勝など国内のレースだけでなく、トランスパシフィック・レース、シドニー~ホバート・レース、アドミラルズ カップなどの国際外洋ヨットレースに多数参戦して好成績を収める。また、ヨットレースの最高峰といわれるアメリカズカップにも、日本代表チームのメンバーとして挑戦。現在、ヨット建造コンサルタントやセーリングスクールなどのセーリング事業一般を取り扱うコンパスコース社代表取締役社長として、ヨットの普及にとどまらず、日本の海洋民族としての歴史や誇り、文化などを伝えるために活動中。
西村一広

どんな少年時代でしたか?

出身は福岡県の遠賀郡芦屋町で、漁村だったので子供の頃から船遊びをしていました。近くにモーターボートレース場があって、廃船がそこらにいっぱい捨てられているんですよ。それを子供たちが持っていって、漕いだりマストを立ててセイルを付けたりして。船遊びは、その街の子供たちの間では定番でしたね。

船乗りを目指したきっかけは?

芦屋町の沖、玄界灘って冬場はすごい荒れるんですね。最近はなくなりましたけど、小さい貨物船とかが冬場は定期的に2~3隻遭難して、そこに保安庁が遭難した船を探しに行ったり、沈んだ船の遺族を乗せて花束を持って行ったりとか。そういう悲惨な光景を見たり聞いたりしながら「俺も船乗りになりたい」って思ったんです。小学5年生くらいの時でしたね。目の当たりにしていた光景は決して憧れるようなものでもなかったのに、なぜそう思ったのかいまだによくわからないんですけど。そこから親父に「船乗りになるにはどうしたらいい?」って聞いたら、商船大学というのがあるって言われてそこを目指すようになりました。

西村一広

セーリングを目指すようになった経緯を教えてください。

入学してすぐにヨット部に入って、のめり込んでいきましたね。ただ、その時はレースを目標にはしていなかったんです。でも、実習が始まって本当の練習船に乗ったりすると、自分がイメージしていた外国航路の船長さんっていうのはそれほど格好良くないぞって気が付くんですよ。海を楽しむ余裕なんて全然なくて、ただひたすら経済のために船の運航に携わるっていう。やっぱり上手になりたい=レースに出なきゃいけないっていうのもあって、3年生の時にヨットで生きていこうと思ったんです。当時は誰一人賛成してくれなかったですね。絶対食えねぇと。お前ヨットで何するんだよって。それで大学4年生の時に買った古いヨットで、仲間二人で東京から九州まで帰ったんです。30分ごとに漏れてくる水を汲み出さなきゃいけないような船だったんですけど。その時に自分に約束事を作って、もし東京から九州まで無事に帰れたらセーリング関係の仕事に就職することを許す、これがダメだったら普通の船会社に就職しようって。そしたらたまたま上手く着いちゃったんです。じゃあ、セーリングの世界を目指そうって。

西村一広

卒業後はすぐに選手の道に?

最初はヨットの雑誌社へ入社しました。ヨットの雑誌の編集者になると取材で乗れるじゃないですか。当初、その会社では編集者がレースをしながら取材するのはダメっていう決まりがあったんですね。それを説得して、じわじわと社内ルールを変えていってるうちに、段々とレースに出られるようになりましたね。選手として働きながら、終わった後レポートするみたいな。その中で編集者を辞めるきっかけとなったのが、小笠原~東京レースですね。その時も、もしこのレースに優勝できたら編集者を辞めて次のステップに進んでいいっていう自分との約束をしていたんです。それで優勝して、当時の最年少優勝スキッパー(船長)になって。そこからですかね、本格的に選手の道に進んだのは。

海外と日本のセーリングシーンの大きな違いはありますか?

そうですね、一番僕が影響を受けたのはニュージーランド人ですね。当時の日本では夜のレース中は前の帆に毛糸をつけて、それを懐中電灯で照らしながらちゃんと前に流れているかどうかっていうのを確認しながら走っていたんです。でも、ニュージーランドでは夜は見えないままでちゃんとセーリングするんですね。真っ暗闇の中、航海灯以外の灯りはないままでやらなきゃいけないんです。若かった僕には、すごく衝撃でしたね。あと、ニュージーランド人ってね、絶対諦めないんですよ。マストは折れても、まだレースやろうとするんです。普通ならセールがちょっと破れたら、もう進むことを止める判断をするんですが、その破れたセールをどう直してどう走り続けるか、どう成績を上げていくかっていうのを真剣に考えてやるんですよね。今のニュージーランド人は、せいぜい200~300年前にヨーロッパから移住してきた移民の子孫になるんです。まだ曽祖父とか、すごく近い存在に海を渡ってニュージーランドに来た先祖がいて、その時の話は身近に聞けるみたいなんです。未開のとこで家を作るところから始まって、水道とか電気を通すところをゼロからやってきた話をね。

西村一広

歴史的な背景もセーリング競技に関係していると?

ニュージーランド人は、自分たちの祖先がどんな歴史をもって、どんな船の歴史を作ってきたかみたいなのを、ものすごくちゃんと知ってるんですよ。人に説明できるくらいに。「自分たちは海からやってきた」っていう意識があって、航海する能力にも長けているっていう自負がある。だから簡単には負けるわけにはいかないっていうその気持ちが、ヨットレースにもすごく活きていると思います。日本では、ヨットは西洋から入ってきて初めてセーリングを始めたっていう程度の知識しかなくて、西洋から入ってきたから、彼らに劣るのはしょうがないくらいの気持ちが多少あると思うんです。でも、調べてみると実は日本も縄文時代くらいからセーリングをしていたはずなんですよ。本州で発見された旧石器時代の矢尻に使われていた黒曜石が、伊豆諸島の神津島のものだってわかっていて、その島の手前には強力な黒潮が流れているので、人の手で漕いでは着かないはずなので。そういう祖先が海に出てたことを誇りに思うような教育がこれまで日本ではなされていなかった、そこが海外との差なのかなと感じています。

レースでの差はマインドによるところが大きい?

私の経験で言うと、そうですね。HELLY HANSENにサポートしてもらいながら、アメリカズカップという大会2回出場しているんですね。2回目の出場、2000年のチャレンジの時にすごく思ったのは、勝つチームや上位に行くチームの選手たちは、例えばニュージーランドだったらニュージーランド人であること、ニュージーランドチームの選手であることをものすごく誇りにしてるんです。それに対して、僕らはそんなに日本人であることを誇りに思って戦っているわけじゃなかったんですよ。終わってから色々考えて気がついたんですけどね。その最後の最後の鍔迫り合いに勝つには、やっぱり心のところが大事だって思ったんです。その心がないと後一歩が、横並びにはきても前には出れない。

西村一広

HELLY HANSENとの印象的なエピソードはありますか?

1984年にウィンドサーフィンの世界大会が日本で毎年開かれるようになって、そのレース運営のチームに入ったんですね。その時に選手達に負けないくらいかっこいいスタッフウェアを作ろうということになって、そこでHELLY HANSENに手伝ってもらってウェアをゼロから作ったのが最初です。HELLY HANSENの強みっていうのは、日本人の体型に合った日本のオリジナルプロダクトを日本で作る。そういうことができるのって今も昔も他のセーリングブランドにはないんですよね。2000年のアメリカズカップで作ったウェアは、海外のチームにものすごく人気でした。その頃は大会後にウェアを交換して称え合うのが恒例で、終わった日にイタリアのチームが来て「交換してくれ」って。相手はPRADAのウェアを着てるんですよ! そのチームがHELLY HANSENを欲しがったのは嬉しかったですね。お陰で僕たちもPRADAをいっぱい手に入れて(笑)。

西村一広

現在、そしてこれからの活動について教えてください。

今は、東京都のお台場学園や東京海洋大学でセーリングを教えています。あとは一般社団法人を作って、そこを母体にして親子でセーリングを体験してもらうっていう体験イベントを開催したりしていますね。子供たちにこそ、日本人として生まれてセーリングやってることの意味はあるんだよっていう祖先のことは教えていきたいんです。あとは子供たちが自然とつながる方法としてセーリングを覚えて、海に出て魚が跳ねるのを見るとか、そういう競技以前の喜びとか、根っこのところを広げていく活動の手伝いができればというのは思っています。

海の魅力とはなんですか?

そうですね、海単体としての魅力じゃなくて、そこに関わってる人間の能力に魅力があると思います。以前、あるハワイのセーリングカヌーの世界一周の運航を手伝ったことがあるんですが、その人達はGPSとか六分儀とか時計とかまったく使わずに指で太陽とか星の角度を測って、それだけで進んでいくんですね。そういうのを目の当たりにしていると、海の上にいる人間の能力の凄さっていうものに、僕自身がもう少し深く関わりたいなっていうのを感じています。だから「海はいいな」っていう魅力じゃないんですけど、人間の能力を思い出させるというか、人間の能力を引き出してくれる。そこが海の魅力だと思ってます。