New Sports Vol.01

「新しいスポーツ」の作り方 – How to make New Sports

  • NEW SPORTS
  • 2021.7.14 WED

 GOLDWINと元陸上選手の為末大さんは、「新しいスポーツ/New Sports」をつくりたいと考えています。どんなかたちで、どんなものになるかまだまだ私たちもまだはっきりとは見えていません。ルールや技術、道具、身体、フィールドなど、新しいスポーツが生まれるきっかけは様々なところにあると思っています。

 この連載は、為末さんと様々な方との対話によって導かれる、既存のスポーツの解体、もしくは遊びの発明・発展を通じて、新しいスポーツに到達していこうという試みの記録です。初回となるこの記事では、新しいスポーツとはどんなものであるのか、なぜいま「新しいスポーツ/New Sports」をつくるのかについて、為末さんに話を伺いました。

KEY POINTS OF NEW SPORTS


プレーする条件や環境が変わる不安定さを許す
勝敗に囚われないルールのあり方
ある種の無計画さや遊びを大切にする
遊びや日常のなかから発展、展開していく可能性をさぐる
社会のヒエラルキーや構造を揺さぶるものを

あやふやな世界や環境に自分を合わせていくスポーツの可能性

——2020年3月に新装版が出た著書『「遊ぶ」が勝ち』の中で、新しいスポーツ(ニュースポーツ)をつくりたいと書かれています。為末さんが考える“新しいスポーツ”とは、どんなものなのでしょうか。

為末 スポーツ界が“スポーツ”と呼んでいるものを大きく二つに分けると、「毎回同じ条件が揃えられるもの」と「同じ条件が揃えられないもの」に分けられます。例えば、陸上競技場のトラックは、だいたいどこでも同じ条件が揃えられます。一方でサーフィンは「ある選手の波と他の選手の波が同じかわからない」ですよね。

——相手が自然ですから、まったく同じはないですね。

為末 同じ条件が揃えられるスポーツは、公平性にとても囚われています。「彼が走った時と、僕が走った時は同じ条件だったか」を厳密に追求するんです。自然が相手のものはそれがないので、「公平性がどれくらい保てるか」についてあやふやです。そのあやふやな世界は、「環境に自分を合わせていく」ということになり、毎回新しい発見をしていくことになる。僕がいまおもしろいと思っているニュースポーツは、そうしたものをイメージしています。

——条件がプレイヤーごとに変わると。

為末 陸上は、百年程ある歴史の中で培ってきた道筋や計画が存在していて、「この段階でこれをやると次にこうなる」という風に、トップアスリートになるまでの段階がある程度見えています。裏を返すと、「この年齢までにこれができていないと、トップアスリートにはなれない」ということでもあるわけですよ。だからこそ条件が変わり続ける世界が、ニュースポーツには大事だと考えています。

——公平であることよりも不安定な条件でやるスポーツが、これからおもしろくなると思われるのはどうしてですか?

為末 ルールがきっちりして勝利の基準が明解だと、最適な戦略がきっちり見えてきます。つまり数値化ができ、計算ができるわけです。極端にいうと、人間に考えさせるよりデータを収集してAIに最適な戦略を出してもらう方がよくなってしまう。「最適が何かがわかりにくい」世界の方が、その場その場で臨機応変に対応しなければならず、それがより人間らしい営みな気がするんです。

——ニュースポーツは、いわゆるみんながイメージする“スポーツ”じゃないものになる可能性が大きそうですね。

為末 そうですね。まさにそういうことです。

世の中がアップデートされて変わっていく時、勝利至上主義の思考は邪魔になる

勝敗に囚われないスポーツが新しいものを生み出していく

——具体的にはどんなことを考えていますか?

為末 もっと多くの人が参加できたり、おもしろがれるような…、例えば生活様式の中の動きがスポーツ化したものとか、既存のスポーツが崩れたものとか、そういうイメージを持っています。

——生活様式から生まれたものは参入障壁がかなり低そうですね。

為末 条件を揃えられる陸上競技にあって唯一の例外がマラソンです。コースとなる公道は、全ての開催地で同じ条件を揃えることはできませんよね。だから、僕らはマラソンの記録をいつも参考として捉えています。そうした条件下で市民マラソンが生まれてきました。市民マラソンはいわゆるマラソンの大会とは違って陸上の公式な競技には入っていません。陸上の公式な競技に出るには日本陸連への登録がいるんですが、市民マラソンは公式競技ではないので、一般の方々が出られる大会になっているんです。結果としてここに人がたくさん流れ込んできて、いま公式な陸上の大会より大きなスポーツになっていることが象徴的だと思うんです。きっちり公平性を保った世界から、ゆるくて余白があって毎回同じ条件とは限らないスポーツになったがゆえに、多くの人がそれぞれの目的で参加できるスポーツになった。そこには僕が考えるニュースポーツっぽさがあります。

——必ずしも参加者みんなが勝敗を求めているわけではなく、絶対的な目的がないということですよね。

為末 まさに。僕がいた世界はみんなの目的が“勝利”で一致していますけど、市民マラソンなどニュースポーツ的なものは目的がバラバラということだと思います。

——そうするとスポーツにおける勝敗の有無の影響はどう考えますか。

為末 まず一つのメリットは観客側にあります。勝利があると観客は混乱しないんですよね。「何かに向かっている」と思ったほうがわかりやすいから。以前、新潟で行われている「大地の芸術祭」というアートイベントに行った時、初めてアートにちゃんと触れたこともあってすごく混乱したんです。「これはなんの競争なんだろう」と。

——芸術祭を競争と捉えた。

為末 そうなっちゃったんです。逆にいうと、何かの競争だったらとてもシンプルに見ることができます。でも何かの競争じゃないとしたら、別の捉え方をしなければいけないのにそれがわからなかった。選手にとってはとにかく“勝つ”が目的で、あらゆることがそこに紐づいていると思うと、一番難しい「何のためにやるのか」という問いを考えなくていい。そういう「教育的なやりやすさ」もありますね。

——「速くなる」のは数値化できて、「速くなればなるほど勝利に近づける」ってことですものね。

為末 ええ。「どんな生き方したいの?」という問いはしなくて済む。「速くなるのはいいことだ」とか「勝つのはいいことだ」から始まるので。だから、「シンプルで、教育的にはとてもやりやすかったのかなぁ」という思いはあります。デメリットは、正にその裏返しだと思いますね。

——勝利を教育的に利用してきた面もある中、いまの社会的な状況も踏まえて、勝敗が曖昧なものの方がいいのではないかという気持ちが出てきたと。

為末 そうです。僕は引退した選手のキャリアサポートもしているんですが、引退した選手に会うと、多くの人が大地の芸術祭の時の僕と同じ反応をしちゃうんです。「次は何の競争だ?」って。

——「自分はどこで戦えばいいんだ?」と。

為末 一番混乱するのは、スポーツ外の社会では「ハッキリとしたレースが行われていない」ということ。漠然としていて、勝利条件もバラバラ。そもそも勝利という定義が当てはまらない目的に向かっていることもある。そんな中でもルールが曖昧なところから新しいものが生まれている気がするんです。そう考えると、「勝敗に囚われる」ことでいまある戦いにこだわってしまい、「新しいものを生み出すのが難しい」ことが一番問題な気がします。世の中がアップデートされて変わっていく時、勝利至上主義の思考は邪魔になる。

その日、思いついたことを試すような性質を持っている選手の方が選手生命は長いんです。

いまを繰り返していく「遊び」がもたらすもの

——勝敗のマインドから抜け出すために必要なのが、曖昧さや“遊び”の領域ということですか?

為末 遊びが一番そのマインドから外れやすいんじゃないかと思っています。「ある目的から逆算して、計画を立てて、そこに向かっていく」という行為が、勝敗のマインドから生まれるものだとすると、一方で遊びは、「“いまここ”からからスタートする」感じというんでしょうか、いま目の前にあるものをおもしろがって、「こうしたらどうなるんだろう?」ととりあえずやってみる。いま目の前のものやことをちょっといじってみると、形や状況が変化する。それに触発されて「じゃあ、次はこんなことをやってみよう」と繰り返していく。ひたすら目の前で起きている、いま、いま、いまを繰り返していくということが、遊びの要素には入っている気がするんですね。だから、「未来の目的から逆算した計画の世界」と「いまを繰り返していく世界」の差が一番大きい。

——「現在をどう更新していくか」を遊びはやっているということですね。

為末 そうですね。

——いわゆるアスリート的な育ち方をすると、「目的からの逆算」になってしまう。遊び心を持ちながら大人になるには、子どもたちは、どうスポーツと付き合っていくといいのでしょう。

為末 一つは「目的的になり過ぎない」こと。いまのスポーツの現場でも、世界一やオリンピックなどの目標はある一方で、グラウンドに立った時に「こうしたらどうなるんだろう?」という心身運用の余白を考え、実践する余地は残っているんですね。その日、思いついたことを試すような性質を持っている選手の方が選手生命は長いんです。最後まで残るモチベーションは、やっぱりそういうところになるから。だから、子どもたちには「何のために」を問い過ぎないことが大きい。「これ、何のためにやるの?」と問えば問うほど、レース的な勝敗を目指すことになる。「何のためかもよくわからないけどおもしろいからやってみた」、「振り返ってみたら何かができていた」という経験や感覚を、もう少し重んじることが大事な気がします。大人の目線からしてみると「取り組む前に何かを決め過ぎない」感じ。やる側からしてみると、やってみないとそれがどういうことかわからないけれど、あれこれ計画して取り組むのではなく、よくわからないままでも手を出してみると、何かが変化をして「なるほど、こういうことか!」とわかる。そこから浮かび上がったものを次々に試していく。そういうちょっとした気軽さや手軽さが遊びを保つ上で、すごく重要な気がします。

——ある種の無計画さ。

為末 そういうことですね。強豪校で育った選手は、「とりあえずやってみろ」が一番苦手なんですね。頭で理解しないとできない。あとは「指示されないと何をしていいかわからない」。これが遊びを阻害する一番大きいものだと思います。

——では「自ら学ぶ」手段を持つためにも、“遊ぶ”という考え方が大事なわけですね。

為末 そう思いますね。

「不完全さ」みたいなものをニュースポーツではすごく大切にしなければいけない


キノコ採集をスポーツ化する

——“ニュースポーツ”をこれからどうやって作っていこうと考えていますか。

為末 まず大事だと思うのは、「遊ぶ」「ただおもしろい」ということ。「何かの役に立つ」に引きずられないようにしたい。もう一つは、作る側の心境として、自分が夢中になっている要素を客観的に分類できるかは大事な気がしています。人間には、個別差はありながら共通のおもしろがるポイントはある気がしていて、それを上手く潜ませることは大事。その一方で「人間はこういう風にやるとおもしろがるんだ」と気づいたことを、誰もがきっちりおもしろがるような設計に仕上げすぎると、それはそれでプレイヤーがある意味システムの中で「遊ばされている」ようになってしまう。

——囲いの中でやっているということですね。

為末 プレイヤーもまた不完全なものに何かを付け足しながらおもしろがれるもの。「環境を設計し過ぎない」ことはとても重要で、「不完全さ」みたいなものをニュースポーツではすごく大切にしなければいけないんだろうと考えています。

——遊び手がルールを発見できる余白が常にある。

為末 はい、まさにそういうことですね。

——方向性的には既存のスポーツを解体する方向と遊びから発展していく方向、大きく二つがあるのかなと思うんですけれども。どちらに可能性を感じていますか。

為末 スポーツから崩れていくのは、さっき言った市民マラソン的な流れに近い気がするんです。そっちの可能性もあるにはあると思うのですが…。そもそも歴史的にスポーツは、羊飼いがその辺の棒で落ちている石を打って転がしていたら、だんだんそれを遠くに飛ばすようになり、さらに穴に入れて…みたいなところから生まれてきたものなわけです。そのうち権威やルールが生まれてきた。だから、最初は遊びだったものがきっちりとルール化されてスポーツになったわけですが、この流れを逆流するのはとても難しいと思っています。戻ることもできるんだけどかなり努力がいるな、かな。それより、遊びがスポーツに寄っていく方が自然な流れという気がしています。

——野球に向かうスポーツの原型(遊び)があったとして、タイムラインの途中で枝葉が横に伸びていくことで別のスポーツになる可能性がある。そういうパラレルな野球の歴史ができる、というのはいいですね。

為末 そう! そういう感覚のほうが自然。やはり秩序の方向に向かっていく性質がスポーツにはあるので。

——「遊びからの発展」はどういうものをイメージしていますか?

為末 例えば「何かを採集、収集する」とか。自分の母親を見ていてもキノコ狩りとか山菜採りとかをよくしているし、子どもはポケモンを集めるとかが大好き。「何かを集める」は、もうちょっとスポーツっぽくなってもいい。あとは、ラグビーとか“追いかけっこ”的な要素を持っているスポーツは多いので、追いかけっこは可能性がありそう。あとは“プレイ”という言葉の中に演劇も入っていると思うんですけれども、途中で役(割)が交代するようなものや、ドッジボールみたいな性質のものも色々と可能性があるんじゃないかな。以前、変わった鬼ごっこをやったことがあります。「赤が鬼、青が逃げる役で、デジタルで色を変える装置を付けてランダムで色が変わる」みたいなことができて、役割交代が大きな意味を持つ新しいスポーツのカタチになりうるなと思いました。

——状況を不安定にして、どれだけ練習してもアンコントロールな状況に追い込まれるような。

為末 「最後の触る瞬間に色が変わっちゃった」とか「近寄り過ぎたことが不利になる」みたいな予測できなさはおもしろそうです。

ある動きだけに特化していくいまのスポーツ界の在り方は、ルールと勝敗がはっきりしているからそうなっている

“いろんなことができる身体”から生まれるスポーツがあってもいい

——スポーツは、例えば「打つ」「走る」「飛ぶ」など運動の組み合わせでできていると思うんですが、「この身体能力、身体運動はまだスポーツで活かされていないな」みたいなものはありますか。

為末 少しズレた回答になるかも知れませんが、銅像や石像が残っている古代オリンピックの頃のプレイヤーの体は、マラソンも円盤投げもレスリングもほとんど同じ体型なんです。それは当時の思想で「完璧であるものは美しい」、「すべての競技において有効なのはある一つの完璧な形である」というのがあったから。

——唯一の理想的な体型があった。

為末 それがいま何が起きているかというと、「各競技に最適な体型がある」とされていて、2メートル以上の身長が必要な競技もあれば、小さいほど良いものもある。つまり将来必要とされる技能や体格、筋力などが数値で割り出せてきているので、そこを選択的に鍛えていく方向にいっているんですね。これは人間にとってアイロニックな状況を生み出しているんです。人間と他の動物とを分けている一番大きな要素は、「いろいろなことができる」ということなんですよ。動物に比べて遅いけど走れるとか、苦手だけど木も登れるとか。ところが、最適化が進むとある意味それしかできないような身体になっていっているわけです。

——チーターみたいな人間や、ゴリラのような人間を作っているような感じ。

為末 そういうことです。それは本来の人間の性質からは離れているのではないかと。だから、(身体を特化、最適化するのではなく)いろいろやらなきゃいけないスポーツがもっと必要なんじゃないかと。100メートルの選手は超特化型なので、ある意味、最弱なカードになり得るわけです。

——「終末世界が訪れた時、どのアスリートが生き残れるか」みたいな。

為末 ある動きだけに特化していくいまのスポーツ界の在り方は、ルールと勝敗がはっきりしているからそうなっているんです。だから、それが曖昧になるようなものは、意外な動きが生まれる可能性があるという意味で質問への回答に近いかも知れません。

——多くのスポーツにおいては、極めれば極めるほど、ある動きに特化して身体が鍛えられていくと。だけど「バランスよく鍛えた身体が向くスポーツってなんだろうか?」という視点から、ニュースポーツを考えることができるかもしれない。身体から始まる発想ですね。

為末 技術やルールだけじゃない視点もあるかもしれないですよね。

ニュースポーツ的かもと思ったのは、みんなで協力して課題をクリアして部屋を出る「脱出ゲーム」

脱出ゲームがスポーツになるかもしれない

——語呂合わせ的ではありますが、ニュースポーツは、勝敗を決める「競争」ではなく、共に作り上げていく「共創」のような考え方もあり得るんじゃないかと思うのですが。

為末 みんなが夢中になるものには、「これからどうなるんだろう?」という未知や不確実性のあるものか、「ある一つの仮想の課題をみんなで協力しないとクリアできない」というものがありますよね。遊んでみてちょっとこれはニュースポーツ的かもと思ったのは、みんなで協力して課題をクリアして部屋を出る「脱出ゲーム」。あれはちょっと「ぽいな」と思いました。

——「宝探し」みたいなものだったら、先程話しが出た“収集”みたいなコンセプトも加わってきそうですね。

為末 あと、いまのスポーツでまずないのは「参加者が試合中に変わる」ことです。スポーツはルール上、「エントリーの段階で登録された人以外が入ってくることはない」と試合に参加できる選手が決められています。ここに未知の何かが足されると、一気に勝利へと向けて行われた練習の成果や作戦などが崩れていきます。「ここに誰かがジョインしたらせっかく立てた戦略が崩れる。けれど、代わりに何か新しいものが生まれるかも知れない」みたいなことはいまのスポーツにはない。

——パッと思いつくのは草野球ですかね。

為末 たまたま見ていたおじさんを助っ人で入れちゃったりしますよね。

——「お父さんが来た!」とか。

為末 「大人はずるい!」みたいな。

本当に根源的なことは社会のヒエラルキー構造を揺さぶるところにある

スポーツの根源は社会のヒエラルキーを揺さぶることにある

——仮にニュースポーツが普及して、みんなが参加し始めた時、どんな変化が起こっていくと思いますか。もしくは、「起こってほしいな」と思いますか。

為末 いまスポーツが社会に提供しているものは、ビジネスやエンターテイメントの側面が大きいですが、本当に根源的なことは社会のヒエラルキー構造を揺さぶるところにあると思うんです。それはアートにも近い。社会の構造や役割が固定化される中で、スポーツを入れることで関係が変化したり、文脈が一瞬でも崩れる。それによって固定化されがちな社会が、その都度撹拌されて生き生きと運営されていくようになる。それが一番大きな価値じゃないかと思うんですね。それが皮肉なことにスポーツがどんどん政治化されていくと、このスポーツ自体の中に同じ様なヒエラルキー構造ができていってしまう。僕がニュースポーツに一番期待しているところはその撹拌性です。いつ始まるかもわからなくて、気軽に始まり、気軽に終わる。参加人数もルールもあまり厳密な決まりがない…みたいな感じのものが日常にポツポツ生まれることで、社会の中の動きがもう少し活発になり、固定化されにくくなってほしい。そんな役割ができるんじゃないかと思います。いまのスポーツはそれができにくくなっている。そこをもっと緩やかにしてみたい。そういう意味で、ニュースポーツは、スポーツの持つ本質的な役割が担えるんじゃないかなと思います。

——ということは、それは子どもだけじゃなく、大人にも提供し得る。

為末 そうですね。もしかしたら大人の方がインパクトがあるかもしれない。子どもにとってみると、どうしても社会に取り込まれて固まっていきがちなところを、ニュースポーツによってちょっと離れたりできるようになるのは大きいかな。

「負けた人がおもしろくなくても気にしない」ことが前提になっている

どうすればみんながおもしろなるかを考えること

——『「遊ぶ」が勝ち』では、ニュースポーツが「議論や共感、哲学、創造を学んでいく学習プログラムになっていけばいいな」という様なことも書かれていました。

為末 僕は全くの競技スポーツの世界で生きてきたので、この世界がいかに公平性と勝ち負けの勝利基準を明確にすることにこだわっているかをよくわかっています。そのプロセスは、法律を考える立法に似ているところがあると思うんです。「どういう法律を当てはめると、社会はより公平になるのか」ということに。ただ、スポーツの世界は勝利を公平、公正のゴールとしてルールを決めているので、「負けた人がおもしろくなくても気にしない」ことが前提になっているんです。

——圧倒的に多いのは敗者なのに。

為末 そうそう。社会においては、人がいかに社会参画するか、生きやすくなるかを考えてルールが作られていくんですけど、ニュースポーツでルールを作っていくプロセスはそのプロセスに近い気がしています。「どうやればみんながおもしろくなるか」というルールや前提作りを議論していくことになると思うんです。「こうやると俺の役割だけがおもしろくないんだけど」とか「こうやるとこうなり過ぎるからやめない?」と議論や対話が行われるプロセスが教育的価値として高いだろうと。

——与えられたルール内で行うのではなく、自分たちでルールを設定したり、改定していこうという過程には、哲学的な問いや思索も含まれるんじゃないかということですね。

為末 そうです。

キノコ採りの名人とかに話を聞いてもおもしろそうです

土俵が30cm大きくなったら、相撲はどう変わるかという視点

——ここまで様々なニュースポーツの種となる考え方やアイディアが出てきました。次回以降の連載ではどんなことを考え、実践していく予定でしょうか。

為末 たとえば、日本体育大学の教授で相撲部の監督でもある齋藤一雄さんという方がいます。斎藤教授は「土俵があと30cm広がると相撲はこうなるはずだ」ということを研究していて、すごくおもしろいんです。土俵の大きさは選手の体格が大きくなっているにも関わらず変わらないので相対的に小さくなっているんですね。だから引き込むためのスペースがなくなっていて、「押す」ことが増えているそうなんです。でも「30cm大きくなると、引いて一歩下がった時にまだスペースがある分、多様な技が出やすくなる」とおっしゃっていて、なるほどと思いました。ある意味の既存のスポーツの解体。こういうことをお話できる方とはぜひお会いしていきたいですね。

——ルールを設定するときのゲーム性を高める解がなんであるかを探る、トライがそこにあるわけですね。

為末 そうそう。先生は「子ども相撲の方がなぜ技が多いのか?」というところから着想して、「子どもは小さいから土俵上のスペースが大きい」ということに気づいて先程の話になったんじゃなかったかな。

——ルールを変えていくことで、力士の身体や力の使い方という大事なポイントに影響していくわけですよね。

為末 斎藤先生は医学の博士号もお持ちで、相撲を客観的な立場で語れる相撲界ではレアな立ち位置の方なんです。「どの技が一番多く勝利に使われているか」というデータを取って指導に使ったりしていておもしろい。

——ルール論から技術論、身体論まで様々なものが関連しながら出てきそうです。

為末 あとは全然違う世界の人、例えばキノコ採りの名人とかに話を聞いてもおもしろそうですね。

——“フィールド理解”みたいな観点から話してもらえるかもしれないですね。「見えないところにあるものをどうやって発見するのか」とか、見る力の話とか聞けそうです。

為末 ハンターとかもあるかもしれないですね。

——ハンターなら動体視力や危機察知能力ですね。スポーツの世界に限らず、あらゆるところからニュースポーツの可能性が考えられそうで楽しみです。