The North Face
1971年のカタログより。パターンは従来の通りに表生地の素材をコットン100%からポリエステル60%/コットン40%の混紡へと替えてリニューアル発売された。

マウンテンパーカと名付けられた製品がアメリカのアパレル市場に溢れたのは1960年代から70年代にかけてのことである。
大きめのフードとハンドウォーマーを兼ねたポケット。北米先住民族の衣装に着想を得て考案されたデザインは今でこそ見慣れたものに思えるが、雨風や寒さから身体を護るための画期的なアウターガーメントとして当時大変に注目を集め、 サンフランシスコの街や大学のキャンパスにはこのジャケットに身を包んだ若者たちが数多く溢れた。

●San Francisco 1966

1966年、サンフランシスコ・ノースビーチ地区にザ・ノース・フェイスの一号店がオープンした。
冒険家のダグラス・トンプキンスが開業したクライミングやハイキング、山スキーのための道具を扱うプロショップ。その店に並んだアイテムのひとつに既にマウンテンパーカと呼ばれる商品はあったが、ザ・ノース・フェイスのオリジナル商品としてマウンテンパーカが販売開始されたのは、それから4年後の1970年のことだった。
ポリエステル60%、コットン40%の混紡素材を表生地に使用することで濡れと蒸れを防ぐ性能を備えたブランドオリジナルのマウンテンパーカは、クライミング、ハイキング、ヨット、スキー、釣りにも適した万能タイプのアウターとして人気を博し、以後約20年に渡って定番商品としてカタログに、その名を残すことになった。
ところで、マウンテンパーカが多くの人に愛用されていた頃のアメリカには、どんな風が吹いていたのか?
過去に出版されたカタログや書籍を手がかりに、主にアウトドア・スポーツや自然環境にまつわる出来事に焦点を絞りながら、その答えを探ってみたい。

●激動の時代

アメリカの60年代は、社会を揺るがす大きな出来事が次から次へと起きた「激動の時代」だった。
ベトナム戦争、キューバ危機、公民権運動、ケネディ暗殺、アポロ11号の月面着陸。
アメリカ政府は公共事業に積極的に取り組むことで需要と景気を喚起させる政策を打ち出し、それが功をなして経済社会は好景気に湧いた。
その恩恵を受けた中流階級のアメリカ人は、郊外に一軒家を持ち、自動車、電子レンジ、テレビなど、暮らしを快適にしてくれる道具を揃えて物質的な豊かさを享受した。
生産技術の進歩と共に大量のモノを安価な値段でつくることが可能となった。これによって使い捨てできる商品が次々と生まれ、国民はそれらを大量に買い求め、大量に消費するようになった。
産業の急激な発展は同時にさまざまな弊害も生み始めていた。
大量の商品を生産するには大量のエネルギーが必要とされる。つまり石油を燃やして機械を動かすわけだが、それによって自然破壊や公害が生み出され、同時に朝から晩まで機械のように働かされる非人間的な生き方も生み出された。

●カウンターカルチャー

このような時代に生まれたのがカウンターカルチャーだった。
カウンターカルチャーとは、既成の権力や親たちの世代の価値観に疑問を抱いた若い世代が独自のライフスタイルをつくろうとした現象を意味する言葉である。
真面目に会社勤めをして貯蓄を増やし、郊外に一軒家を買い、二台の車を所有し、大量のモノを消費しながら一生を送る。これがごく平均的なアメリカの親たちの世代が理想とした生き方だった。
いっぽうで若い世代は、親たちが「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」と呼んだそのような暮らしに対して疑問を呈しはじめた。
世の中の全ての問題は科学によって解決することができる。頭脳を鍛えれば生き方の質を向上させることができる。多くの学校では、そんな画一的な教育がおこなわれていた。
実力主義や科学の力で弱者を押さえつけてまで個人の幸せを求める生き方が、果たして本当に正しいことなのか。そうした疑問を抱き、大人たちの欺瞞を見破った若者たちによる叛乱が始まった。
あらかじめ社会に敷かれたレールの上を進むだけのスクエアな生き方からドロップアウトした彼らは、独自の文化圏を築きあげることで社会を変革しようと、さまざまな実験を開始した。
若者たちは学校や仕事場から抜け出して髪とひげを伸ばし、爆音でロックを鳴らして狂喜乱舞し、愛と平和を唱え、コミューン運動を展開した。
このように奇想天外な実験を繰り返しながら、大人がつくった社会とは違う理想的な社会の実現を夢みた若者たちは「ヒッピー」と呼ばれた。
都会を脱出して田舎暮らしを目指したヒッピーたちが唱えたスローガンが「BACK TO THE LAND(バック・トゥ・ザ・ランド)」だった。直訳すると「大地へ還ろう」ということになるが、これは60年代末から70年代初頭にかけて全米で展開された「農的暮らしで新しい地平を切り拓こうとする試み」の総称であり、コミューン活動を肯定するための合言葉でもあった。

フロントの両胸の部分にスリット付きのポケットがついた現在のモデルの原型が完成したのは1976年のことだった。表地は60/40。大きめのフードが傘の代わり、大きめのポケットがデイパックの代わりを果たす機能的なデザイン

●全地球時代

バック・トゥ・ザ・ランドを志向する若者たちのあいだで熱狂的に支持されたのが『ホール・アース・カタログ』という出版物だった。
『ホール・アース・カタログ』は、スタンフォード大学で生物学を専攻したスチュワート・ブランドによって編纂され、68年から72年にかけて断続的に発行が重ねられた大判の本である。
巨大なシステムが支配する都会を抜け出して新しい暮らしをゼロからつくりあげたい人の参考になりそうな本―――ドーム型建築のつくりかたの本、『宇宙船地球号』で知られるバックミンスター・フラーの本、インディアンテントの本、マッシュルーム栽培の本、サバイバル技術の本、ボディマッサージの本、古代中国の書物『易経』など―――の詳細が引用文と短いコメントと一緒に紹介された、いわばオルタナティブなライフスタイルを実践するためのブックカタログだ。
『ホール・アース・カタログ』は単なる情報の羅列ではなく、その組み合わせの妙により、誌上で紹介されている本を揃えれば今すぐにでもコミューン生活が始められる気がする、そんな不思議な魔力を放つ出版物だった。
コミューン生活にまでは至らないが、都会を離れて自然のなかで時間を過ごしたいと考える若者がこの時代に少なからずいたことは想像に難くない。『ホール・アース・カタログ』初号にも『CAMPING & WOODCRAFT』、『backpacking』、『Light weight camping equipment and how to make it』といったキャンプやハイキングの専門書が紹介されている。

●歩き始めた若者たち

通巻5号目にあたる『ラスト・ホール・アース・カタログ』では、コリン・フレッチャーが68年に上梓した『ザ・コンプリート・ウォーカー』が紹介されている。『遊歩大全』の邦題で日本でも翻訳出版された、バックパッキングの思想や作法が体系的に書かれた本だが、この時代に出版された他の教本とはまるで異なる文体で書かれた、実用的でありながら哲学書のような匂いを放つ不思議な本だった。
バックパッキングという言葉がアメリカで広く知られるようになったのは60年代後半から70年代半ばにかけてのことだった。
それまでのアメリカでは「アウトドアライフ」といえば狩猟と魚釣りを意味する場合が多かった。しかし、それをするには余暇に費やすことのできる十分な時間と豊富な財力が必要とされたため、実際にアウトドアライフを体験できた人は多くなかった。
車社会の歴史が長いアメリカにはオートキャンプの文化も根付いていたが、所詮は別荘暮らし延長で、人の手が入っていない荒野の奥深いところで幽寂閑雅な気分に浸ることを旨としたバックパッキングとは目的も趣も異なるものだった。
バックパッキングは数日間を山で過ごすための食料やテントや寝袋などの野営のための道具一式をリュックに詰め込んで山野を歩く。ただそれだけの行為だが、車社会のスピードに慣れていたアメリカ人の目にはそれが新鮮な行為として受け入れられた。フレームパックを背負ったバックパッカーが全米各地の山岳トレイル上に列をなした。
北米西海岸沿いの高所にあるカナダ国境からメキシコ国境までの4千キロを結ぶ自然遊歩道パシフィック・クレスト・トレイルが整備されたのもこの頃で、足に自慢のある若者たちはこぞって4、5ヶ月の長旅に挑んだ。このトレイルを70年に初めて完全踏破したのは当時18歳だったエリック・ライバックという高校生だった。そのときの旅の様子は『ハイアドベンチャー―ある青春・山岳4000キロ縦走記』という本に記されている。

アウトドア雜誌『Mariah』1977年冬号に掲載されたTHE NORTH FACE(U.S.A.)の広告記事。左の男性のようにダウンベストの上からパーカを重ね着することでより保温性を高めるレイヤリングを推奨していた。

●エコロジーの時代

70年代に入ると反戦運動やヒッピーカルチャーと入れ替わるように「エコロジー」が当時の若者世代にとって大きな関心事となった。
きっかけは、アメリカ各地で次々と起きた自然環境を脅かした出来事だった。
69年、カリフォルニア州サンタバーバラの沖合で採掘が続けられていた原油が流出する事故が起きた。十日に渡って流出を続けた原油は近くに棲む海鳥やアザラシやイルカを油まみれにし、そのショッキングな映像がテレビや新聞を通じて全米に報じられた。
すでに終戦を迎えていたが、ベトナム戦争に使用されたナパーム弾や猛毒のダイオキシンを含む枯葉剤による健康被害も見逃せない問題となっていた。
エコロジーとは本来「生物と環境の関係を扱う学問」を意味する言葉だが、当時のアメリカでは自然保護活動や反公害運動を支えるスローガンとして使われることも多かった。
「自然は人間の活動のために制服されるべきだ」という18世紀の産業革命以降に生まれた考え方を見直して「地球上の生きとし生けるものは全て繋がっている」と捉え直す、いわば価値転換のシンボル的なキーワードとしてもエコロジーという言葉は使われた。
海洋生物学者のレイチェル・カーソンが62年に雑誌『ニューヨーカー』に発表した『サイレント・スプリングス』は、殺虫剤などに使用されていたDDTという物質が生態系に悪影響を与えることを告発した論文である。この論文が社会に与えたインパクトは甚大で、食品公害や化学薬品公害を論ずる際には必ずこの本が引き合いに出されるほどだった。のちに書籍化され、わずか半年で50万部を売り上げたこの本は2年後に日本でも『生と死の妙薬』の題で出版され(のちに『沈黙の春』と改題)、大いに反響を呼んだ。
68年にスタンフォード大学のポール・エーリックが発表した『人口爆発』も当時の社会に大きな驚きを与えた本である。急激な人口増加は生態系を破壊する要因であり、このまま人口が増え続ければ食料供給が追いつかず、70年代には数億人が餓死するだろう。それを防ぐには人口抑制しかない。そんなショッキングな予想は世間を大いに騒がせた。
こうした社会の動きを受けて開催されたのが「アース・デイ集会」である。上院議員ゲイロード・ネルソンと大学院生デニス・ヘイズの呼びかけにより開催されたこの催しは、毎年4月22日を「環境について考える日」と定め、各地でパフォーマンスや討論集会をおこなうというもので、現在でも毎年各都市で開催されているユニークなイベントである。70年に開催された一回目の「アース・デイ」には全米各地で二千万を超える人々が地球への愛と忠誠を誓ったという。

1978年、カタログに初登場したWindjammer。GORE-TEX社が開発した防水透湿性素材を採用し、濡れと蒸れに強いアウターガーメントとして人気を集めた。

●心と身体の健康

70年代はエコロジーに加えて「精神と肉体の健康の大切さ」や「人間性の回復」が叫ばれはじめた時代でもあった。
カウンターカルチャーの余波により、それまで社会の権威であった政府や教育機関は信頼を失墜し、アイデンティティを失った人々は不安に苛まれるようになった。そこから個人ひとりひとりの個性や人間性を回復しようという新たな考え方の潮流が生まれ、身心を健康に保つことの大切さが唱えられるようになった。
こうした時代の流れを受けて、自然のなかでおこなう新種のアウトドア・スポーツが次々と考案された。
バイクパッキング、ジョギング、クロスカントリースキー・ツーリング、カヌー・ツーリング、キャッチ・アンド・リリースを前提としたフライフィッシング、バードウォッチング。
クワイエットスポーツとも呼ばれたこれらはいずれも化石燃料を無駄に浪費することなく自然と向き合うことのできるスポーツである。
70年代は、エコロジー色の強いアウトドア・スポーツ関連の雑誌が次々と創刊された時代でもあった。
ウィリアム・ケムスリーが73年に立ち上げたバックパッキングの専門誌『バックパッカー』。ロックジャーナリズムの雜誌『ローリング・ストーン』から77年にスピンアウトしたアウトドア雜誌『アウトサイド』。化石燃料 を使わないアウトドア・スポーツだけを取り上げる編集方針を掲げて71年に創刊された『ウィルダネス・キャンピング』などなど。
これらはいずれもアウトドア・スポーツの楽しみ方を伝える雜誌ではあったが、ときおり組まれた自然環境にまつわる特集記事がエコロジーマインドを持ったアウトドア愛好家たちの意識をひとつに束ね、地球への忠誠心を高めた。
こうした時代はいわばアメリカにおけるアウトドア・カルチャーの黄金期で、奇しくもマウンテンパーカの販売が継続されていた時期―――70年から84年頃まで―――とも符号する。

1982年のカタログより 。生地の混紡率をポリエステル65、コットン35へ変更。アップデートした性能が人気を集めた。

●時代は変わる

こうして過去の文化を振り返ってみてあらためて気付かされるのは、地球上の自然環境の改善こそが何より喫緊の課題とされている現代に生きる私たちが胸に抱いているのと似た意識の種が、あの時代に既に蒔かれていたということだ。
その芽がなかなか出てこない状況を憂うることも、かつての若者たちがそうしたように前の世代に対して反抗の声をあげることもできるかも知れない。
けれども、そうするよりもまだ見ぬ未来を夢見ながら荒野を歩き始めた方が、いい気分で朝を迎えることができそうだ。
ヒッピーたちのあいだで愛読されていた孔子の本に、このような言葉がある。
「子曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為すべし」(先生がいわれた。「煮詰めておいたスープを、もう一度あたためて飲むように、過去の伝統を、もう一度考えなおして新しい意味を知る、そんなことができる人にしてはじめて他人の師となることができるのだ」)『論語』貝塚茂樹訳。
時代は常に変わり続けている。それぞれの時代に求められる伝統とその意味を新たに考え出さなければならないのは他でもない、わたしたち自身なのだ。