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The DOLOMITES, Mountain Range in Italy

  • 地球の歴史が育んだ奇跡の地形
Alaska Photograph : Chris Noble
Alaska Photograph : Yoshiro Higai

The DOLOMITES, Mountain Range in Italy ( How Mountains Are Made

トム・バートというスノーボーダーの名前を聞いたことがあるだろうか。

カリフォルニア州のリゾート地として知られるレイク・タホの森に建てられた三角屋根の家に妻と2人の娘と共に暮らす彼は、暖炉にくべる薪を準備しながら54度目の冬の訪れを静かに待っている。

1980年代のはじめ頃、サーフボードのような形状の板に乗って雪山の斜面を滑り降りようとする者たちが現れた。足を固定するための装置もない不安定な板の上でバランスをとりながら、スキーとは異なるターンを繰り返す若者たち。この奇妙な遊びは社会から煙たがられ、スキー場には「スノーボード滑走禁止」の看板が掲げられた。

遊び場から追いやられた彼らはゲレンデ脇のロープをくぐり抜けた先にあるバックカントリーエリアに新たな楽園を探し求めるようになっていった。

トム・バートもまた、そんな若者のひとりであった。幼少期から冬は裏山でスキーを楽しみ、夏にはクライミングに出かける根っからのバックカントリー・ボーイ。高校時代の友人からの誘いをきっかけにスノーボードに乗りはじめ、その浮遊感に完全に心を奪われるまでにそう時間はかからなかった。

80年代も半ばを過ぎる頃になるとスノーボードに対する社会の認知度も上がり、ゲレンデでの滑降も許可されるようになった。我が物顔でゲレンデ脇を滑るスノーボーダーを横目に、トムはレイク・タホの山を毎日のように自力で登っては滑り、ファーストディセントを幾つも成し遂げていた。トムにとってスノーボードは、これまでスキーでは辿り着けなかった自然の奥深い場所へと我が身を導いてくれる魔法のスティックだった。

スノーボードを始めてから4年が経過した頃、トムの眼差しは裏山を越えた遥か遠くにそびえるアラスカの山々へと向けられるようになっていた。

そして89年、当時はまだマウンテニアリングの世界にしか馴染みのなかった小型飛行機をつかってデナリの氷河へ降り立ち、フリースタイルライディングの最初の体現者となった。

その後も20年間に渡って数々の未滑降の山の斜面に最初のラインを刻み、レジェンドとしての地位と名声を手に入れることになったトム・バート。

そんな彼の生まれ故郷でもあるレイク・タホを訪れた我々取材班のインタビューに応じてくれた、これはトム本人の口から語られたアラスカン・ドリームにまつわるエピソードである。

子供の頃からスポーツが好きだった。野球、バスケットボール、スキー。ここ、レイク・タホは田舎町だから、学校のクラスの子供の数も少なくて、スケートボードもスキーもクラスメイト全員で一緒に楽しんだ。

初めてスケートボードとサーフィンを体験したのは12歳のときで、スノーボードは18歳。プロになったのは、それから3年後の85年のことだ。

スノーボードという乗り物の存在を最初に僕に教えてくれたのは、当時のクラスメイトで全米屈指の滑り手として名を馳せていたボブ・クラインという男だった。ユタ州のメーカーが独自に製造を手がけ70年代後半頃から販売していた「ウィンタースティック」と呼ばれていた板が、僕が最初に乗ったボードだ。

冬のある日、ボブと一緒に近くのスキーリゾートに出かけた。ウィンタースティックは一枚の板を削っただけのシンプルな乗り物だから、うまく乗りこなすのは容易なことじゃない。雪が柔らかければターンも簡単に出来るけれど、硬い雪面だとコントロールが効かなくなってしまうんだ。

初めてターンが決まったときのことは今でもよく覚えている。自分の脚で裏山を登り、パウダーの斜面に板を走らせた。サーフィンみたいに軸足に体重をかけたらスーッときれいな弧を描くことができた。なんとも言えない素晴らしい感覚で、あのときの感覚は忘れられない。だから僕は今でもスノーボードを続けているんだと思うよ。スノーボードという呼び名も無かった頃の話だ。

当時、スノーボードが許されていたスキー場は全米にも数えるほどしか無かった。大人たちやスキーヤーのあいだではスノーボードは危険な遊びだと思われていたから、スノーボーダーは常に邪魔者扱いだった。けれども何度も滑るうちに、スキーよりもスノーボードのほうが急な斜面を滑るには有利だということに気がついて、そのことを一般の人にも認めさせることが自分のモチベーションになっていった。当時の僕らは若くてパワーも有り余っていたから、まるでパンクロッカーみたいな反抗的な気持ちを胸に秘めながらスノーボードの腕を磨いていったんだ。

80年代半ばに大学に進学してからもスノーボードを止めることはなく、雪山の急な斜面を登っては難しい地形を攻略したり、崖からドロップしたりを繰り返していった。

僕のプロ・スノーボーダーとしてのキャリアは、スピード競技のレーサーから始まっている。当時はビッグマウンテンを滑ることがアスリートの表現や仕事になるなんて考えは誰も抱いていなかった。それどころかビッグマウンテンを滑るということさえも想像できない時代だったから、レースに出ることで懸賞金を稼いだり、入賞してスポンサーにサポートされること以外に活動資金を稼ぐ方法は無かったんだ。

80年代後半にスノーボード専門誌という新しいメディアが登場すると、ライターやフォトグラファーとアスリートが組んでビッグマウンテンを攻略する過程を綴ったアドヴェンチャー・トリップの記事が人気を集めるようになっていった。それまではプロ・スノーボーダーと言えばレーサーを意味していたけれど、マウンテニアリングの技術を活かしながらビッグマウンテンを攻略する、いわば「スノーボーダーという新しいプロフェッショナル」が誕生することになったんだ。僕らは全米中の滑りたい山のリストをつくり、攻略した山には次々と線を引いていくことにした。そのリストの最初に登場した地名がアラスカだった。

アラスカのルース氷河へセスナ機を駆って初めて降り立ったのは89年のことだ。そこに1ヶ月ほど滞在しながら周囲の山に登ってはライディングを繰り返した。山岳写真家のクリス・ノーブルや登山家のコンラッド・アンカーらが同行し、マウンテニアリングのベテランである彼らから登山技術や雪崩への対処法などを学んだ。

この旅をサポートしてくれたのがノースフェイスで、この年から僕は専属アスリートになった。スノーボーダーがメーカーからスポンサードされるのは、今では当たり前のことだけれど、当時は話を持ちかけても一笑に付されるだけだった。世間の多くの人が僕の存在を映像などを通じて認識するようになったのは、91、2年頃のことだろう。3週間ほどを費やしてバルディーズを攻略した映像が91年に公開され、その映像を通じて多くの人がスノーボード・トリップとは何なのかを知ることになったんだ。

アラスカの山と言っても標高2000メートルの高所もあれば、なだらかな斜面もある。でも、どんな山を滑るときでも基本的なスタンスは変わらない。楽しいことをするために、最高のラインを刻むために、全力を尽くす。ただ、それだけだ。

89年のアラスカから始まって、過去20年のあいだに数えきれないほどの山を滑ってきた。ジェレミー・ジョーンズの冒険の手伝いや、ビデオチームの撮影ガイドも何度も担当したけれど、未踏の山にラインを刻む気持ちよさを目標としていたから、どんな山を登ることも全く苦ではなかったね。

タホの山に降る雪はアラスカの雪と良く似ている。太平洋の暖流が運んできた湿った空気が山にぶつかって湿った雪を降らせる。タホの短いラインを滑ることができれば、アラスカのビッグマウンテンを滑ることもそれほど難しいことじゃない。もっとも、あの頃はインターネットやデジタルカメラも無い時代だったから、事前のリサーチには充分時間をかける必要があった。先に経験した者がいれば話を聞けるけど、僕らが最初の経験者だったからね。

世の中の多くの人が僕らのことをクレイジーだと言うけれど、いかに安全に滑降を成功させて生還できるか。そのことばかりを考えていた。ほんのちょっとのミスが死につながるし、それを未然に防ぐには常に冷静な判断が求められる。自分たちには何ができるか。何ができないか。その判断を正しくおこなうための練習を重ねてきた。その成果があのライディングに繋がったんだと思う。

急斜面を滑るときに直面する最初の大きな課題は、いかに恐怖心を克服するかということだ。その課題を攻略するために、僕の場合は、とにかく練習を重ねる。さまざまな雪の状態の急斜面を何度も繰り返し滑るんだ。そうやって練習を重ねていけば、困難さにも慣れて、どんなに急な斜面を滑るときでも平常心を保つことができる。急斜面に立ったときに恐怖を感じるのは当然だと思う。でも、いざ滑り出してしまえば普段の自分を取り戻すことができる。そして周囲で起こっていることも、よく見えるようになってくる。

僕が雪山での挑戦から学んだこうした技術は、人生の他の全てのことにも応用できるものだと思うんだ。

  • Interview : Yuta Watanabe
  • Text : Toshimitsu Aono
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