Xavier De La Rue

HANGING WITH HEROES

Xavier De La Rue
  • PHOTOGRAPHS:Tero Repo
  • INTERVIEW & TEXT:PARADISE

ザビエル・
デ・ラ・ルー

ビッグマウンテン・スノーボーダー。ザ・ノース・フェイス所属アスリート。
一九七九年、フランス生まれ。幼少期からスキーに慣れ親しみ、十代の頃からX-GAMEやフリーライド競技の大会に出場。二〇〇三年、二〇〇七年、スノーボード・ワールドカップのスノーボードクロス部門で金メダル受賞。他にもフリーライド競技の大会で多数の受賞経験がある。二〇〇六年トリノ・オリンピックのスノーボードクロス部門で銅メダルを受賞したポール・アンリ・デ・ラルーと、TNF専属アスリートのヴィクターは彼の実弟。

ザ・ノース・フェイス所属アスリートとしてグローバルキャンペーンにもたびたび登場。山肌に露出した氷の斜面を驚異的なスピードで滑り降りる、いや、飛び渡ると言ったほうがしっくりくるような滑りで世界を沸かせているザビエル・デ・ラ・ルー。
一九九〇年から二〇〇〇年にかけて開催されたスノーボードクロスやX-GAMEの大会で優秀な成績を収めたのちにフリーライディングへと転向。ドローンやパラグライダーなどを駆使したライディングシーンで多くの人の度肝を抜く、まさにキング・オブ・スノーと呼ぶに相応しいビッグマウンテン・スノーボーダーだ。
二十五年以上にも渡るキャリアを経て、あらたな世界へと足を踏み出そうとしているザビエルに、今後のビジョンについて訊ねてみた。

自己紹介をお願いします。

フランス生まれのフランス人。スノーボード歴は二十五年。スノーボードクロスのチャンピオンだった時代もあるし、X-GAMEに出場していた時代もある。この十五年は主に世界各地を旅しながらフリーライディングの活動を続けているよ。

出身地は?

サン・マリーというピレネー地方の小さなスキーリゾートだよ。山の他に有名なものは何もない静かな村だけど、スキーを学ぶにはベストな環境だ。十三歳のときにスノーボードと出会うまではスキーをしていたよ。

スノーボードと出会ったきっかけは?

兄がやっていたのを真似て始めたんだ。

ヴィクターのことかな(ザ・ノース・フェイスアスリート)。

いや、ヴィクターは二歳下の弟で、兄はフランソワだね。五人兄弟姉妹なんだ。フランソワはクライミングが得意で、僕がクライミングをやるようになったのも、彼の影響だ。

どんな子供時代を過ごしたのかな。

両親は地元で小さなスポーツショップを運営していて、スキーも扱っていたから僕らも自然とスキーをやるようになった。五歳の頃、兄とよくスキーに出かけていたのを覚えているよ。友達とスキークラブに通っていた時代もあるね。オフシーズンにはトレッキングをしたり、ツリーハウスをつくったり、マッシュルーム狩りに出かけたり。多くの時間を家族と過ごし、山や自然の遊びを楽しんでいたよ。

スノースポーツの世界へ進むことになったのは、家族やお兄さんの影響が大きかったんだね。

常に兄を追いかけていたからね。
夏にはピレネー地方の山へ出かけてはマウンテンバイクやパラグライダーを楽しんでいたよ。

クライミングはしていなかった?

僕がクライミングを始めたのは、それほど早くないんだ。七〇年代に父の兄弟がクライミングで命を落としたこともあって、クライミングから遠ざかっていた時期があったからね。でも、十八歳のときに道具を揃えて始めたら、すぐその魅力に取り憑かれた。クライミングの体験はスノーボードにも活かされていると思う。安全確保の考え方とか、山頂にたどり着くまでのコース取りとか、天候の読み方とか。いろんな面で役立っているね。

子供の頃からスノースポーツもやっていた?

もちろん。スキー、スノーボード三昧の日々を送っていた十三歳から十八歳は僕の人生のなかでも特に重要な時期だ。当時から僕のフィロソフィは変わってないんだ。「誰かのマネをするのではなく、自分のやり方で好きなことを追求し続ける」。自分の生き方は自分で決める

自分の生き方は自分で決める

スノーボードの乗り方を最初に教えてくれたのもお兄さん?

兄はターンのやり方を教えてくれたけれど、手取り足取り教えてくれたわけじゃなく、そこから先は独学だね。何度も転んだりして苦労したけれど、だんだんと自分にあった滑りができるようになっていったんだ。

その頃に身につけた滑りの技術は、今でも役に立っていると思う?

その頃はテクニックというよりもフィロソフィを学んでいた時期だと思うね。人のやり方に従うことで自分の限界を決めてしまうのではなく、失敗しながらも自らで学ぶべきだというような考え方。それは現在の僕の人生の方針にもなっているね。自分の生き方を決めるのは自分しかいない。

お兄さんは君のメンター(精神的指導者)というわけだね。

そうだね。それに、スノーボードを始めたばかりの頃に仲間がいたのはラッキーだったね。スノーボードはよく個人スポーツだと言われるけれど、僕はグループスポーツだと思うんだ。仲間と山で体験を共にして、楽しみをシェアする。そのほうが個人でやるよりディープに楽しめるし、技術も向上させられるんじゃないかな。

この地域でスノーボードを始めた若者たちは、まずはレース出場を目指すのかな?

ピレネーはスノースポーツのメッカだ。スラローム、ハーフパイプ、フリーライディング、あらゆる種類の競技の機会がある。なかでもさまざまな技術が必要とされるスノーボードクロス競技は挑戦に値するものだと思ったんだ。それで大会にも出場するようになったんだけど、でも一方で、競技スポーツは表面的な部分を満足させるだけのものだとも感じていた。若い頃は闘争心も盛んだから、勝つことに夢中になりがちだけど、多くの経験を積んでいくうちに勝つことだけがスノーボードの魅力じゃないと、より大きな視点で捉えるようになっていったんだ。

スノーボードクロスから
フリーライディングの世界へ

スノーボードクロス競技に熱心に取り組んでいたのは何歳頃?

十七歳の頃だね。最初のワールドカップに出場したのは九八年で、その頃は完全にスノーボードクロス一色だったね。スノーボードがまだオリンピック競技になっていなかった当時はコースもバラエティに富んでいて、自由なスピリットが感じられて面白かった。オリンピック競技になってからのスノーボードはルールに縛られるようになって、残念ながら当時のスピリットはなくなってしまったね。

スノーボードクロスからフリーライドへ転向したきっかけは?

フリーライドの撮影は二〇〇六年頃から本格的にやりはじめた。スノーボーダーの友達が見せてくれたアラスカのピークからの滑降写真に衝撃を受けて、僕もフリーライドのプロとして活動を始めることにした。最初のトリップはアラスカで、シャモニーのビッグマウンテンにも挑戦するようになっていったんだ。

初めて滑ったアラスカの斜面の印象は?

雪も地形も多種多様で、まるでアミューズメントパークに来たような気分だったね。ヘリを使えば容易にピークに辿り着く着くことができる。あまりにも簡単にアクセスできるから、まるで人工の斜面を滑っている気分だった。ヨーロッパの斜面は岩と氷だらけだし、アラスカほど簡単にアクセスできないところが多いからね。

君の滑りの映像を見たんだ。急な崖からのロングジャンプ。あれには度肝を抜かれたよ。

二〇一〇年の動画だね。誰もジャンプしたことのない崖で、どこに着地するかを正確に見定めなければいけなかったから、とても難しかったし怖かった。

あんなに急な崖を飛んだのは、あれが最後?

そうだね。毎日できるものじゃないしね(笑)。

あのような危険な体験をしたあとでは自分のなかで何か変化があった?

最高のラインを求めるというのは、ある意味では買い物のようなものだと思うんだ。良いラインを描いたあとは、次から次へともっと良いラインを求めたくなる。けれどもそれは終わりのない欲求のようなもので、そのことに気づいてからは違う満足を求めるようになった。より安全を心がけ、旅を楽しむような方向へと気持ちが傾いているね。

競技スポーツとしてのスノーボードから、フリーライディングへと興味が移っていったということかな。

そうだね。フリーライディングと言っても、アラスカのようにヘリコプターで頂上まで運んでもらうスタイルもあれば、登山家と同じ技術と体力を駆使して山頂を目指すスタイルもある。ある決まった型があるわけじゃなく、自分で目的を決めて、滑りで具現化していく。そんな自由さがフリーライディングの特徴なんだ。
競技スポーツは、ある同じ動作を繰り返し練習することでその技を磨いていくものだよね。いっぽうでフリーライディングは自然とコネクトして、個人的なビジョンをもとに実行されるものだ。ひとつとして同じ動きのない一瞬を観せる、ある種の表現活動のようなものと言えるんじゃないだろうか。

あらたな挑戦に向けて

フリーライディングの撮影には常に身の危険や事故のリスクが伴うけれど、プレッシャーを感じたりはしない?

プレッシャーは競技のときも常に感じていたよ。プレッシャーは悪いことばかりじゃない。それを自分で手なづけることさえできればね。僕は常に進化していたいと考えているんだけど、進化にはプレッシャーは欠かせない。スキーを背負って凍った壁に取り付いたりする行為は精神的にも肉体的にも強いプレッシャーを与えるものだけど、自分の直感に従って正しいことをしていれば良い結果を生み出せると僕は信じている。
もちろんプレッシャーが良くない結果を生むこともある。でも、それがあるからこそ喜びを感じることができるんじゃないかな。プレッシャーを感じながら旅をして、そのときの感情をシェアすることに今はやりがいを感じているんだ。フリーライディングの活動を始めてから、これまで僕は地球上の様々な極地を旅してきた。南極、グリーンランド、カムチャッカ、ニュージーランド。たくさんの素晴らしい体験をしてきたし、その体験を映像を通じて多くの人たちと共有したいと思っているんだ。僕にとってスノーボードは道具のようなものだ。自分を知るための道具であり、人に何かを伝えるための道具なんだ。

パラグライダーやドローンなどの道具を駆使して先進的な滑りの表現を模索し続けてきたわけだけど、今後挑戦したいことは?

地球温暖化をテーマにした三年がかりのプロジェクトが進行中なんだ。ヨハン・ロックストロームという世界的に知られる環境学者と共に地球上の三つの極地│北極、南極、チベット│を旅しながら、現地の地殻を調査して、その結果をもとに地球温暖化の予測活動を行っていくという計画だ。調査地にはスノーボードに最適な山や斜面があるから、滑降を通して地形の特徴を伝えていくことにもなるだろう。このプロジェクトは多くの人にインスピレーションを与え、これまでの暮らしを変えるきっかけにもつながる。人生を変えるための新たな物語を発信していこうと考えているんだ。

なぜ人々にインスピレーションを与えたいと思うのだろう。

これまで僕は、観た人がスノーボードをしたくなるような映像を発信してきたわけだけど、今後は単なる遊びの提案ではなく、自然環境を少しでも良くするためのメッセージを発信していきたいと考えているんだ。

人生で最も恐怖を感じた瞬間

最後に、二〇一一年に公開されたスノームービー「THISIS MY WINTER」について聞きたいんだけど。動画の冒頭でザビエルが氷壁に取り付いているシーンがあったよね。足を滑らせて滑落しそうになる手間ギリギリのところでアイスアックスを壁に打ち込んで急死に一生を得るという、非常にスリリングな瞬間を捉えた映像だけど。あのときの状況について詳しく教えてもらえるかな。

あれは僕の長いキャリアのなかでも最も恐怖を感じた瞬間だ。あの年のシーズン最後の撮影で、スイスの高い山のリッジからの滑降を試みたんだ。冒頭のシーンは、あの日一本目の滑降の様子で、滑り始めたらすぐに斜面に氷が露出しているのが見えた。それでも最初はさほど困難な斜面だとは思わなかった。
でも、いざリッジから滑り始めてみるとなんだか調子がおかしい。それで雪のなかに手を突っ込んでみると、薄く積もった雪の下に硬い氷があることに気づいた。雪と氷がサンドイッチ状に幾重にも重なっていて層をつくっていたんだ。慌ててスキーの板を壁に垂直に立てて体勢をキープしようとしたけれど、途中でエッジを失って、ズルズルと滑り落ちそうになってしまった。それで、とっさに手に持っていたアイスアックスを氷の壁に突き刺したおかげで滑落を免れた。もしもあのときそのまま滑り落ちていたら千メートル下の氷塔か何かに突っ込んで悲惨なことになっていただろう。
黒い氷の壁にスクリューをねじ込んで、ロープを使って再びトップまで登り返し、比較的安全なラインへと移動して、麓まで滑降することができた。
その日は家へ戻って庭で仲間とバーベキューをして、ビールを飲んで「あぁ、これでようやく「僕の冬」が終わった」と感じたんだ(笑)。

Victor de Le Rue

INTERVIEW with VICTOR DE LE RUE

Victor de Le Rue
  • PHOTOGRAPH:Blake Jorgenson

ヴィクター・
デ・ラ・ルー

一九七九年生まれのフリースタイル・スノーボーダー。オリンピックへの出場経験もあり、数々のメディアで「ベスト・スノーボーダー」に選出されるなど注目を集める。二〇〇六年ミラノで開催された冬季オリンピックで銅メダルを受賞したポール・ヘンリも彼の実兄。

ザ・ノース・フェイス専属スノーボーダーとして世界各地の斜面に挑み続けているヴィクター・デ・ラ・ルー。先の記事で取材に応じてくれたザビエルの実弟でもある彼に、メール・インタビューを試みた。卓越したライディングで世界を沸かせているフランス出身のDynamic Duo は、いかにして誕生したか?

出身地を教えてください。

フランス南西部のバイヨンヌという小さな村で生まれました。

スノーボードを始めたきっかけは?

三歳年上の兄と四歳上の姉の影響で、六歳の頃からスノーボードに乗り始め、すぐに夢中になりました。サン=ラリ=スランという小さな村で過ごしました。フランス南部ピレネー山脈の近くにある人口わずか千人ほどの、周囲を山に囲まれた小さな村です。両親ともに仕事で多忙だったけれど、子どもたちには家でテレビを観て過ごすよりも野外で遊んでいて欲しいという考えを持っていました。だから僕たち兄弟は冬になると全員でスノーパークへ出かけていって、朝から晩までスキーやスノーボードをして過ごしました。その当時の体験が今の僕をつくったと思います。

その時期にライディングの基本的な技術が磨かれたのですね。

僕らはサン=ラリ=スランのスキーパークで、ちいさなリフトを何度も回して繰り返しタイムレースをおこなっていました。そこで技術を身につけて、ピレネーのスノーボードチームに所属してからはスノーボードクロスの大会にも出るようになりました。現在はフリーライドの世界で活動しています。

クライミングはいつ頃始めた?

ガールフレンドに勧められて、つい四年前に始めたばかりですが、今ではすっかりその魅力にとりつかれ、シーズンオフの時期には岩に取り付いてアドレナリンを放出させている感じです。フランスの美しい山の景色に抱かれながらおこなうクライミングは格別です。

最も恐怖を感じた瞬間は?

カナダのブリティッシュコロンビア州を滑降したときに雪崩に巻き込まれた瞬間です。そのときの様子は動画にも記録されユーチューブ配信されているので「THE NORTHFACE Defiance」で検索してみてください(笑)。

今後冒険の計画は?

いつか南極の斜面を滑ってみたいですね。

ありがとうございました。

Sam Anthamatten

HANGING WITH HEROES

Sam Anthamatten
  • PHOTOGRAPHS:Tero Repo
  • INTERVIEW & TEXT:PARADISE

サム・アンタ
マッテン

ビッグマウンテン・スキーヤー。ザ・ノース・フェイス所属アスリート。
一九八六年、スイス生まれ。一〇歳からクライミングを開始、十六歳でワールドカップに初参戦する。以後、アイスクライマ―として数々の世界大会に出場し、二〇〇九年にはネパールJASEMBA山南壁(七二五〇m)、二〇一四年にはマッターホルン北壁へのファースト・ディセントを実兄で登山家のサイモンと達成する。スノームービーにも多数出演。

スキー技術の巧みなアスリートは数多く存在するが、「史上最強のスキーヤー」としてサム・アンタマッテンの名を挙げることに異論のある者はいないだろう。十代の頃からアイスクライマーとしての活動を開始。以来、いくつもの難攻不落の壁面にその名を刻んできた、世界的な登山家であり、超人的なライディングテクニックで各地のビッグマウンテンを攻略してきたフリースタイルスキーヤーだ。
現在は地元スイスのツェルマットを拠点にパラグライダーやアイスクライミング技術を活かしながら、あらたな冒険の世界を表現し続けている。ヨーロッパが誇るエクスペディション界の若きホープに話を聞いた。

自己紹介をお願いします。

名前はサミュエル・アンタマッテン。ここ、ツェルマットで生まれ、クライミングやマウンテンバイクやハイキングをしながら育った。この山は僕の遊び場なんだ。

家族構成は?

兄弟は四人。一番上がサイモンで、二番目はマーティン。僕は三番目で、下にマリアという妹がいる。父と母はスキーリフトの仕事を通じて知り合い結ばれた。両親は僕ら兄弟をよく山へ連れていってくれた。ハイキングやキャンプなどの山遊びを通じて自然と慣れ親しんできた経験が現在の僕らをつくってくれた。僕ら兄弟は全員この土地で育ったことを誇りに思っているよ。自然のなかで育ったから都会はちょっと苦手だね。

10歳でクライミングを始めた

クライミングを始めたのは何歳のとき?

一〇歳のときに三歳年上の兄のサイモンに勧められてツェルマットのインドアクライミング・チームに所属した。はじめは興味が持てなかったけれど、十一歳のときに5・12d(クライミングの難易度を示す数値)を達成したのをきっかけに、本格的にクライミング世界へ足を踏み入れることになったんだ。同世代のなかでは最も強い選手になれて、ナショナルチームに所属して競技にも出場するようになった。夏は野外、冬は室内でボルダリングをしていたんだけど、あるときアイスクライミングの存在を知ってからは、すっかり夢中になってしまったんだ。

それはいつ頃のこと?

十三歳だね。大会には年齢制限があって、十六歳になったときにロシアで開催されたワールドカップにようやく出場できて好成績を収めることができた。モスクワから千キロ離れたキエフという町に一ヶ月ほど滞在して、クライミングの合宿に参加したんだ。

若い子たちがやれるスポーツが他にもあったのでは?

もちろん、ひとつのスポーツだけに興味を持っていたわけではないんだ。夏にはクライミングをやっていたし、マウンテンバイクもマウンテニアリングも好きだった。氷のコンディションが良ければアイスクライミング、雪が良ければフリーライディング。四〇〇〇メートル級の山々が連なる、ここツェルマットでは季節や天候によって様々なスポーツが楽しめるんだ。マルチピッチの登攀も十三歳頃からやっているよ。

ティーンネージャーだけで登攀に出かけたりして危険な体験はしなかった?

大きなアクシデントはないけど、レスキューの世話になったことがあったね。十二月のある日、当時十六歳だったサイモンとアイスクライミングに出かけて、登頂を終えるとすでに辺りは真っ暗。仕方がないから両親に連絡をして助けを呼んだんだ。

そのときの登攀は何時間ぐらいかかったの?

壁に取り付くまでに九時間、それから六、七時間かな。そのときサイモンは誰かにアイススクリューを貰って持っていたんだけど、扱い方に慣れていなかったせいか、ひとつのスクリューを打ち込むのに三〇分もかかってしまっていたんだ。僕は寒さに震えながらビレイをしていたよ。

レスキューを呼ぶことになって、お父さんに叱られなかった?

いや、むしろ喜んでいたよ。大事に至る前に助かって良かったと。多少のレスキュー費用を負担することにはなったけれど。

正しいことを、自分の責任で

お父さんはどんな人?

若い頃に建築学を学んで、建築業界で働いていた。特別に山に通じていたわけではないよ。

お父さんはマウンテンガイドかと勝手に思っていたよ。君たちにクライミングを教えたのは誰なの?

サイモンの友達さ。サイモンは当時からアルピニストを目指して、家の裏にある外岩を登っていたんだ。最初に話した通り、僕がクライミングを始めたのはサイモンの影響だけど、両親も僕らの活動には協力的だった。両親はいつもこう言っていた。「好きなことをやりなさい。正しいことを、自分の責任で」。

その教えに従って、君らは子供の頃から今までアウトドア活動に専心してきたわけだね。

そうだね。

スキーは、いつ始めたの?

歩きはじめるのと、ほぼ同時期に板に乗り始めた感じだね。家の周りにはスキーの練習に最適な丘があったし、リフトも歩いて二分のところにあった。だから冬は学校帰りに毎日数時間スキーをして過ごしていたんだ。僕ら兄弟はスキーのレース競技にはあまり興味を持てなかった。それよりは森のなかを滑ったり、丘をジャンプしたり、フリーライディングのほうが合っていたね。そうして毎日山に通ってフリーライディングの技術を身に着けたおかげで、ゲレンデ外の遠くの世界へ飛び出すことができたんだ。それまでアイスクライミングに夢中だった僕に大きな変化が訪れたのは二〇〇八年から二〇〇九年にかけて。その冬は良い雪が降って、フリーライドコンペティションが開催されたんだ。

アイスクライミングからスキーへ興味が移ったということ?

その頃の僕はクライミングに対するモチベーションを失っていたんだ。

なぜだろう?

アイスクライミングカップに七年連続で出場し、自分のなかでは全てをやり尽くした気持ちだったんだ。スポーツっていうのは何でも最初が楽しいものだしね。とはいえ完全にやめてしまったわけではなくて、今でも雪が多いときにはスキーを、氷の状態が良いときにはアイスクライミングをしているよ。

フリーライディングと競技のはざまで

大半の人はスポーツというのは一種類に集中したほうが上達すると考えるけど、それについてはどう思う?

トップレベルになりたいならば確かにひとつにフォーカスするのも手かもね。でも、ひとつにフォーカスし過ぎるとモチベーションを失ってしまうことが往々にしてある。それよりも異なるスポーツの世界を行ったり来たりしたほうが技術アップできたりする。そのほうが結果的にはハッピーだと僕は考えているんだ。

他のスポーツから、どのようなことが学べると思う?

たとえばクライミングがスキーに与える影響は。クライミングのムーヴは、自分の身体の動かしかたを身体で記憶しておく行為であり、それは全てのスポーツをするうえでも役に立つ。また、アルピニズムのスキルはフリーライド競技の役にも立つ。滑りのラインを読んだり、雪のコンディションを読み解く上でもプラスになるんだ。異なるスポーツについて考えることはメンタリティを築き上げる上でも役に立つ。

何種類かのスポーツを同時に行うことにメリットはあってもデメリットは無いということだね。

強いて言うなら、スキーで足を折ったらクライミングもできなくなっちゃうってことぐらいかな(笑)。

フリーライドのワールドツアーに出場するときに恐怖やプレッシャーを感じたりする?

プレッシャーというのは他人の期待に応えようとしたときに生まれるものだと思うんだ。うまくやらなきゃという気持ちが本来の調子を狂わせる。ぼくも大会に出場一年目はプレッシャーを感じなかった。誰も僕のことを知らないから、とにかくやるだけという感じで。サンモリッツで初めてワールドツアーに出場したときは、JTホームズやヘンドリック・ウィンズが超急な斜面を滑降していて、そのときはまた別のプレッシャーを感じたりしたけど、ホームズの「崖を良く観察しろ」という忠告に従ったら上手くいった。状況をよく観察することがプレッシャーを減らす上で役に立ってくれることもある。

僕はスキーが上手じゃない

シャモニーにはたくさんのスキーコースがあって、どこからでもスキーで滑り降りることができるよね。

麓から見える全ての斜面を滑ることができるよ(笑)。

この恵まれた環境が君のワールドツアーの成績にも影響していると思うんだけど。

そうだね。僕が生まれ育ったここツェルマットにはスキーエリアが無数にある。イタリアにもつながっていて、ここには五四機もケーブルカーがあるんだ。どれだけ大規模なスキーリゾートか想像できるだろう。しかも、それぞれ個性を持った山ばかり。ツェルマットの山麓は標高一六〇〇メートル、モンテローザは四一〇〇メートル。三〇〇〇メートルもの高低差が楽しめる。シーズンも一〇月の終わり頃から六月までと長く、一年中、好きなだけスキーが楽しめる。

まったく羨ましい環境だね。

年間を通してスキーができるということは、さまざまなコンディションの雪を体験できるということでもあり、それはフリーライディングの技術を上達させる上でも重要なことだ。

ワールドツアーで初めての受賞経験は?

二〇一一年、ロシアのソチでの大会だ。僕は自分ではスキーが上手だとは思っていないんだ。僕よりも上手いスキーヤーは大勢いるからね。だから大会で二位に入賞したときはちょっと複雑な心境だったね。

というと?

あの大会は五人がファイナルに残ったんだけど、誰かが僕よりも先にラインを滑っていたから雪面は荒れていて、まったくクレイジーな状況だった。五人のうち二人が失速して、三人だけが残った。ジェレミー・プレボス、オーレリアン・デュクロ、そして僕。滑り方を変えることはなかったけど、滑落してポイントを失いたくなかったから決勝戦ではスロースピードで滑降するしかなかった。結局、オーレリアンが抜群の滑りで優勝。僕は二位になれたけど、自分自身にとっては納得のいく結果ではなかったね。

山で滑ることと競技に勝つこと、自分にとって大事なのはどっちだと思う?

もちろん山で滑ることだよ。山は僕のホームグラウンドだし、最後に戻ってくるのはこの場所だからね。でも、だからといって競技が重要ではないかというと、そうではない。現在の自分のスキー技術は競技に出場するために練習を重ねたことによって得られたものだ。トレーニングを続けることができたのも、いまの僕があるのも競技のおかげさ。競技を続けてきたことで、精神的にも肉体的にも高みへと上っていくことができたと思うんだ。

初めてのビッグマウンテン体験

やがてフリーライド競技にも出場しなくなって、ビッグマウンテンスノーボーダーへの道を選ぶことになるわけだけど、転向したのはいつ頃?

三、四年前だね。

なぜ、大会に出場しなくなったのだろう。

アイスクライミングと同じように、モチベーションを保つことができなくなったからさ。向上し続けられているあいだは良いけれど、それを維持するのは難しい。やる気を失い「これから僕は何者として活動していくべきだろう」と考えていて、あるとき気付いたんだ。僕はアイスクライマーであり、登山家であり、フリーライダーでもある。これらを全部ひとつにしたら良いんじゃないか、ってね。それで、ビッグマウンテンへ出かけていって自分にしかできないスキーをしようと思いついた。それが新しいモチベーションになって、世界各地の高山を目指すようになったんだ。ペルー、パキスタン、ヒマラヤ。スキーヤー目線で見ると、八〇〇〇メートル級の山の雪質は決して良くないけれど、六〇〇〇メートル級の山には良いラインを刻める場所も少なくない。

最初に挑んだアルパインエリアは?

ザビエル(デ・ラ・ルー)、ジェレミー・ハイツとシーズン後のツェルマットを滑ったのが最初のビッグマウンテン体験だね。標高は四〇〇〇メートル。

君の滑りの動画を見ると、スキーにパラグライディングを組み合わせて、滑降したあとに空を飛んで麓まで降りてくる様子が映っているね。

パラグライディングを始めたのは十五年前。飛べるまでには六年かかったね。とても楽しいよ。スキーとは別の楽しみだ。最近は装備も進化して超小型タイプもあるから、スキーやクライミングのあとにパラグライディングで飛んで帰ってくることもできる。朝起きて、千メートルの垂直の壁を登ったあとにパラグライディングで麓まで降りてくれば、十五分後にはモーニングコーヒーが飲める(笑)。

これまで数々の冒険を経験してきたわけだけど、なかでも最高の体験は?

難しい質問だな。ハードだったのはネパールのファースト・ディセント。チョーオーユーの次に高い、標高七三五〇メートルの山の南壁に初めて登ったときのことは、いまでも鮮明に記憶に刻まれているね。カナダ人のライダーとパキスタンまで旅をしたこともある。パキスタンの人たちはみんなやさしいし、食事もオイシイ。山のスケールも巨大。すべてが素晴らしかった。やっぱり、ひとつに絞ることはできないなぁ。

ネパールの登攀の苦労について、もうちょっと具体的に教えてくれる?
ファーストアセントだったんだよね。

そうだね。七〇〇〇メートル級の山を二〇キロのバックパックを背負って一日中歩くのは大変だった。それに、空気が薄い場所では十分な睡眠がとれないし。それを五夜も続けなければいけないんだからね。

極限の世界

ネパールではスキー滑降も?

そのときはクライミングだけだね。マッターホルン北壁よりもずっとハードな体験だった。

クライミングの最中の肉体はどんな状態なのだろう。

すべての機能が低下していく感じだね。気分が悪くなったり頭痛がしたり、なにかを考えることもままならなくなってしまう。そうなるとメンタルもダウンしてくるけど、常にポジティブであるように心がけていた。僕らはチームで行動しているし、そのときの自分のメンタルが他のメンバーにも影響を与えてしまうから。まぁ、簡単なことじゃないけどね。

そのような強烈な体験をしたあとでは人生観が変わったりする?

クライミングを終えた直後は、しばし呆然としながらも自分がこの山を攻略したんだという達成感に包まれている状態だね。それから徐々に標高を下げていって、無人のベースキャンプに五週間ほど滞在したあとにようやく通常の世界へ戻っていけるわけだけど、家に戻って蛇口をひねってコップに水を注いでいると、なんだか不思議な気持ちになるんだ。ついこのあいだまで、この水の源である山頂の氷の世界に自分がいたわけだから。

ツェルマットでベストだった滑降は?

沢山ありすぎて、これも答えに窮するけど、強いて言うならイタリアへ下るモンテローザの東面、マリネリ・クロワール滑降かな。最初から最後までパウダーコンディションが続いて最高だったね。

挑戦をし続ける人生にも、いつか終わりが来ると思う?

いつかは限界が来ると思うけど、今はとにかく前進し続けたいね。

自分をどう定義する?スキーヤー?クライマー?

ひとつの肩書を決めるのは難しい。僕は僕自身。いま自分ができることを思う存分楽しむだけだね。この取材のあともマウンテンバイクをやりにいく予定だし。

多くの人があなたにインスパイアされていますよ。これからも活躍を期待しています。

ありがとう。

Our sale is limited to JAPAN only. Copyright 2020 GOLDWIN inc.