壁を見上げるクライマーは、いったいどんなことを考えているのだろうか。

野口啓代は「身体の状態によって、壁の見え方はその日ごとに違う」と話す。調子の良い時は、どんなホールドもつかめるように見えて、すべてのホールドに足が乗るイメージができる。逆に調子の悪い時は、どんなに壁を眺めても、すべてが悪く見えてしまう。

壁は今日の自分自身を写す鏡。 壁を見上げる行為は、今日の自分の状態を確認している姿なのだ。

牛舎を改造したジムで
クライミングにのめり込んだ少女期

野口啓代は、11歳で訪れたグアム旅行で初めてクライミングを体験。帰国後、父・健司は長女の啓代と妹、弟を連れ、都内のジムや県内のジムに通うようになった。

「グアムのゲームセンターでクライミングのゲームをしたのがクライミングとの出会いでした。それからすぐにジムに通うようになって、もともと小さな頃から木登りが好きだったので、高いところに登ることがすごく楽しかったんです。指先の力は、この頃から結構強かったんだと思います。大人が持てないような小さなホールドをつかんで、父親が登れないルートを子どもの私が登れることがなんだか嬉しかったのを覚えています」

当時を父・健司はこう振り返る。

「家の中ではお転婆娘で、妹と弟にはずいぶん威張っているんですけれど、外に出ると物静か。小学校の先生の話だと、家での様子とは随分違っていました。え、外ではそんな性格なの? そう驚くほどの内弁慶でしたね。まだこの頃クライミングはマイナースポーツで、国内の大会に出るようになってからも小学生の女子は全国に数えるほどしかいませんでした。啓代は大会で同世代の友達ができると、次会えるのはまた大会だね、と約束をしていました。その頃は携帯電話もありませんから、それをとても楽しみにしていた。一方で、マイナースポーツだったクライミングのことを小学校で説明するのは気恥ずかしかったのか、クライミングをやっていることをあまり周りに話さなかったようです。これは昔、啓代の記事を読んで知ったことですが」

もともと野口家の稼業は酪農。牧場を経営していたことから自宅の敷地内には牛舎があり、啓代の幼少期には多くの牛が飼われていた。乳搾りを手伝うこともあれば、牛たちの足元をすりぬけ、兄弟で追いかけっこをして遊んだ。小学校から帰ると、母親に父親がどこで働いているかを聞き、働く父の背中を眺めるのが好きだったと本人は言う。そして、啓代が中学校に進学した頃、突然、父・健司が古くなった牛舎を改装し、私設のボルダリングジムを作り始めた。

「私は陸上部に所属しながら、放課後には車で30分かけて、自宅のある龍ケ崎市からつくば市にあるクライミングジムまで通う生活を送っていました。そんな中で父が、きっと私が家でも登れるように、と私設ジムを建ててくれたのだと思います。本人は自分で登るために作ったのだと昔から言っていますけど、父が登ってるのは一度も見たことはないので(笑)」

父と娘で挑んだ
はじめての世界大会

クライミングを始めて、わずか1年で全日本ユースを制覇し、中学進学後、国内大会で頭角を現し始めた。高校に進学した2005年、16歳の頃に第1回目となったボルダリングジャパンカップで優勝。後に、この大会で前人未到の9連覇を樹立する。そして、世界を意識するようになったのも同じく2005年。

ミュンヘンで開催されたUIAA世界選手権に日本代表として初出場し、リード・ボルダリング部門に参戦した。

「この世界選手権は、私の競技生活の中で大きなターニングポイントになった大会でした。ユースの世界大会には中学校2年生の頃から参戦していたので、海外の大会は経験していたんですけど、改めて日の丸を背負うことにプレッシャーを感じるようになりました。もう絶対に失敗できないんだと、むしろ前向きになれたというか、これまで以上に必死になったんですね。それまでは週1、2回だったトレーニングを増やして、学校から帰ってくると、毎日家の壁でトレーニングして、夕飯を食べた後にまたトレーニングに戻って、ときどき夜中に父とランニングに出かけたりもしました」

自ら計画した練習をこなし、本格的にトレーニングに取り組み挑んだ2005年のUIAA世界選手権リード部門で3位の表彰台に上がる。

「この大会をきっかけに、努力したらもっと世界のトップまでいけるかもしれないと思えるようになりました」

図らずもこの世界選手権を機に、世界大会を退いたクライマーがいる。日本人で初めてワールドカップ年間総合優勝を果たしたレジェンドクライマー、平山ユージだ。当時、平山は36歳だった。

「僕は日本選手団の中では最年長で、みんなを盛り上げ、引率するような立場でした。そんなチームの中に、まだ幼かった啓代ちゃんがいた。決勝の登りを見ながら、才能のある子が世界の舞台で生まれたのだと感じましたね。あの大会で、彼女は世界と戦える距離感をつかんだ」

2005年の世界選手権以降の15年間、啓代の生活サイクルはほとんど変わっていない。2年に一度行われる世界選手権に出場し、年間では10戦から15戦あるワールドカップに転戦する。世界を旅しながら戦い、2008年には日本人初のボルダリングワールドカップで優勝をすると、翌年の2009年には日本人初となるワールドカップの年間チャンピオンになった。その後、合計4回となるワールドカップ年間総合優勝を果たした。

競技生活20年で唯一の怪我

「2015年はたくさんのことがあった年だなって思うんです。まずボルダリングジャパンカップの10連覇を逃すことから始まって、ボルダリングワールドカップの年間チャンピオンにはなれたものの、ちょうどチャンピオンになった8月に足を怪我しました。それが私にとって、今のところキャリアの中での唯一の怪我です。そこから思うように体が動かなかったり、壁から落ちるのが怖くなったり、自分の体が自分のものじゃないような感覚に陥る時期が長い期間で続きました。2016年、2017年はひたすら辛かったんですね」

この怪我について、父・健司はこう振り返る。

「当時の記事を色々と読んでいると、クライミングを辞めようと思ったというインタビューもありましたね。実はあの時、啓代が膝を怪我したということを、私も女房も知らなかったんです。あんまりそういうことを親に対して言う子ではないんです。この頃はクライミングシーンも転換期でね、色々と悩んでいたのだと思います」

確かに2016年は、スポーツクライミングが大きく進化した年だった。2020年に東京の地で世界的な大会が開催されることが決まると、その波に乗るように、これまでの競技とは傾向が異なるルートが国内外の大会で増えていく。啓代の年齢は、当時27歳。4年後を見据えた時「自分が競技者としてこのまま進化し続けることができるのか。そんな不安で、悩んでいた時期だった」と本人は語る。

一番強い状態を作るために
引退日を決めた

半年、1年と悩みに悩んだ挙句、2020年の夏まで競技者として戦うことに決めた。これまで応援してきてくれた人々や家族、皆への恩返しとして競技者人生のピークを2020年に持っていこうという覚悟だった。

そして2019年、啓代は突如、2020年を最後に競技者を引退することを発表した。

「野口啓代のいない大会は想像できない」と伊藤ふたばは語った。

2020年のボルダリングジャパンカップ、スピードジャパンカップにおいて、野口啓代や野中生萌を破り、2冠を達成した次の時代を担うクライマーだ。

「私がクライミングを始めた小学校2年生の頃に、YouTubeでワールドカップで戦う啓代ちゃんの姿を見たんです。当時の日本人の女性では、唯一世界と対等に渡り合えるクライマーでした。私がクライミングを始める前から、トップに居続けてきた啓代ちゃんが、その場(大会)にいないのはまだまだ想像できません。今年で一緒に戦えるのが最後だと思うと、すごく悲しいんです」

野口啓代に憧れ、その背中を追いかけてきた伊藤いわく、まだまだ野口啓代というクライマーは進化し、強くなっているという。日々の練習に向かう熱量、大会中の完登を目指す熱量が、彼女を強くし続ける理由だと話してくれた。

クライマー野口啓代の強さについて、平山ユージはこんな風に話してくれた。

「啓代ちゃんは昔から“結果を出すスイッチ”みたいなものを本能的に持っているクライマーでした。クライマーが壁と向き合う理想的な状態は、壁との間に何も違和感がない、空気のよどみもないようなそんなクリアな状態なんです。会場の空気を全身で感じながら、周囲と調和していく。メンタルとしては開いていて、周りから発するプラスのエネルギーを受け止め、それを自分のエネルギーへと変えていける状態。啓代ちゃんは自分がベストな状態をつくる環境を理解できていて、結果を出すためのスイッチを自分自身で入れることができて、勝利へと自らを導いていけるクライマーなのだと思っています。それが彼女の強さ。家族への思い、関わっている皆さんへの思い、自分自身への思い、そうした感謝の気持ちを自分自身のエネルギーに変えることができるんです」

節目となる大会を前にして、敢えて引退を表明したことも、「戦うための環境づくりを自覚できているから」と平山は指摘した。

啓代本人の答えも、引退表明は“結果を出すためのスイッチ”そのものだったと話す。それは2020年の元旦の書初めで「最後」「最強」「最高」を連想される「最」という一文字をその年を表す漢字として選んだことともつながる。

「私の中では、一番強い状態に持っていきたかったんです。身体的にも、精神的にも、最も集中できている状態を選手生活の最後に持ってきたかった。引退する日を決めることで、自分自身にも改めて気持ちが入りますし、一日一日の練習もこれまで以上に大切に取り組めるようになります。これが最後だと言えば、よりたくさんの人に声をかけてもらえて、より注目してもらえる。プレッシャーもかかりますけれど、かえって日々が充実するんです。正直自分でも、今が一番強いなって思えるんですね」

強くなるために「引退する日」を明言した2019年。新型コロナウイルスの猛威によって、クライマーとしての日常の尊さを痛感した2020年。そして、2021年春。

「去年(2020年)の自分よりもいろいろ整理できているなって思います。一年前はもっとがんばらなきゃって自分自身を奮い立たせていたなって思います。変わらないんです、引退することとかは。でも今の方が落ち着いて物事を見えているし、すべてを受け入れられているなと思います。やりたいことは変わらない。最高のパフォーマンスを発揮して、悔いのない日にしたい。それだけなんです」

引退を飾る最後の舞台で、かつてないほどに強いクライマーでいられるように。彼女は今日も壁を見上げる。

野口啓代

プロ・フリークライマー。1989年5月30日生まれ、茨城県出身。小学5年生の時に家族旅行先のグアムでフリークライミングに出会う。クライミングを初めてわずか1年で全日本ユースを制覇、その後数々の国内外の大会で輝かしい成績を残し、2008年には日本人としてボルダリング ワールドカップで初優勝、翌2009年には年間総合優勝、その快挙を2010年、2014年、2015年と4度獲得し、ワールドカップ優勝も通算21勝を数える。2018年にはコンバインドジャパンカップ、アジア競技大会で金メダル。「Mind Control」(8c+)、「The Mandara」(V12)を完登するなど外岩の活動も積極的に行う。