THE NORTH FACE

旅の宝もの

  • 文:吉本ばなな
  • 写真:鈴木親

そもそも昔から旅が好きなわけではなかった。私はとにかく荷物の取り回しが不器用で、すぐマフラーやカーディガンを落とすし、カートのままエスカレーターに乗る人を見て「なんて器用な!」と驚嘆したくらい。

自分も同じように鮮やかにやろうとして、スーツケースをがたんと落として大騒ぎになり、見知らぬ人に助けてもらったり、かっこよくないったらありゃしない。

こんなにあちこちに旅をしたのに、今でも荷物の取り回しに慣れることはない。

あと、この世の空港という空港がこわい。

飛行機に乗り遅れたらと思うと、前の日から気持ちが重くなる。

実際に乗り遅れて空港で泣いたことも1度だけだけれどある。そのときはチケットの取り直しで散財して、2回泣くことになった。ほんとうに涙が出るのだ、情けなくてめんどうくさくて。

万人にとって難関の場所、ましていろいろ抜けている私。空港では変な思い出が山積みだ。

イタリアで、しっかり予約していたのに小さな子どもの席だけないと言われて、カウンターで大げんかになったこともある。Eチケットを見せてもしらをきられ、怒ってカウンターを蹴った。係員がびびってもう1回調べたらしっかりとチケットは存在していた。彼は早くお昼休憩に行きたいだけだったのだった。

インドの空港の入り口で「この日本語のチケットでは読めないからむり、別の階に行ってわかるように書き直してもらってくれ」なんて無茶なことを言われて、試しにとなりのドアの別の人のところに行ったらすんなり通れたこともあった。

歯磨き粉や電動歯ブラシやキーホルダーを信じられないほど丹念に調べられたり。

文学賞を受賞して持っていた金塊を、用心のためにアシスタントがコンビニ袋に入れて歩いて、税関の人に笑われたり。

マンガに出てくる骨が透ける機械なんじゃないかと思うくらいの、でっかいレントゲンみたいなのを何回も通らなくちゃいけなくて悩んでいたら、だれもにとって盲点の靴の小さな金具が問題だったことがわかったり。

ロスでの入国が絶対乗り継ぎに間に合わない行列だったので「子ども連れなんですが」と言ってみたら、「そんな大きな子ども、子どもとは言えません」と鼻で笑われて、しかたないので別の人に「乗り遅れる〜!」と言ってみたら、子どもの大きさは関係なく意外に「急いで!」と優しく通してもらえたり。

出入国は運が左右するとしか言いようがない。そんなことには永遠に慣れることができない。

帰りの空港というのがまた、とにかく悲しいものだ。

これまで自由に街の空気を吸い、現地の友と笑いあっていたのに、急に食べものも飲みものもみやげものも全て似たような、味気ない場所に放り込まれる。

旅が終わってしまったなと思いながら、空港時間に自分を切り替えていく。

やっと帰れるんだという気持ちだけで、なんとか明るくいようとするんだけれど。

荷づくりも苦手だ。

明日の今頃は家にいないんだなと思いながらこつこつとやっていると、犬や猫が悲しそうにスーツケースの中に寝転んで、出かけるのを体をはって阻止しようとする。かわいすぎて、そうだよね、行きたくないよと言いたくなってしまう。

そして荷物をどんなにしっかり準備したつもりでも、旅では絶対予想外のことが起きる。

きっと寒いと思って、ストールもダウンも分厚い靴下もしっかりスーツケースに入れたのに、暑くてしょうがない気候だったり。2枚だけ持っていったTシャツや1足だけのサンダルだけでなんとか過ごす。聞いてみると「先週までものすごく寒かったんだよ」なんて地元の人たちは言う。そうでしょう、ネットで調べたらそう書いてあったもの。

きっちり数えたはずのキャミソールがなぜか1枚だけ足りない。あるいはシャツの丈と合ってないのを入れてしまい、変なシルエットに。やむなく着たのを洗濯して生乾きのままで舞台に立ったり。

クリームや髪の毛用のワックスや固形石鹸まで持っているのに、なんでだか化粧水だけ入れ忘れてしまっていたり。

マイナス16度のヘルシンキに万全の構えで、ムートンのブーツを履き、ももひきみたいなニットまで履いて降り立ったのに、なぜか手袋を忘れていたり。

もちろんいちばん大変なのは人間関係で、現地で会ったアテンドの人が困った人で、なのにずっといっしょに仕事をしなくちゃいけないということはよくある。

大変な旅を約束されたも同然だ。

その人のせいでエージェントの男性と2人部屋にされてしまったり(もちろん回避して女性と同室にしてもらいました)。

強盗らしき人を見かけたらアテンドの人が先に走って逃げてしまって、必死で彼を追いかけたり。

せめて自由時間にはその人といたくなくて、「人に会うんで」なんて言ってまこうとしたら、まるで刑事のように「その人との関係は?」「なぜ18時には帰ってこられないんだ? その場所からここまでは15分だ」などと問い詰められたり。

聞いていた場所と全然違うホールで、よくわからない人たちといっぺんに舞台に立つことになっていたり、だからしかたなく英語もろくに話せないのに、舞台の上でひたすらにこにこしてみたり。

後になると笑えるけれど、現場ではずっとくらくらしている。

知らない土地では意外なことは他にもいくらでもある。書ききれないくらい。

来るはずのバスが臨時時刻表の日に当たっていて全く来なくて、暮れていく全く知らない街の広場で途方にくれたり、回数券を取りそびれたら罰金を取られそうになって必死であやまったり。

陽ざしの強い道を歩いていたら子どもが急に鼻血を出してあせってレストランまで走って、木陰の席でゆっくり寝かせてもらったり。

ビジネスクラスだと喜んでいたらリクライニングが壊れていて、いったん倒したら二度と元に戻らなくなり、着陸まで寝たままのかっこうだったり。

飛行機が遅れに遅れて深夜の真っ暗なホテルにこそこそ入っていったり。レセプションに鍵が置いてあったときは、ほっとした。

ホテルの部屋のすぐ外が従業員休憩所で、一晩中おしゃべりが聞こえてうるさかったり。

そんなにたいへんな気持ちを味わったのに、なぜか人生を振り返ってぱっと心に飛びこんでくるのは、いつだって旅の場面なのだ。

旅というものの粋さが憎らしくなるほどだ。

やっとホテルに着いて、プールで泳ごうかそれともバーにでも行こうかと思いながら、時差ボケた頭のまま、服を順番にクローゼットにかけていく旅の始まりの瞬間。

夜のミラノ近郊の小さな駅で、待ち合わせた友だちのシルエットが街灯の光の下近づいてくるところを見る瞬間。

海で顔をつけたとたんに魚がいっぱいいすぎてびっくりして、息つぎをするのを忘れて見いってしまったこと。

港から大きな船が出ていくとき、そこに乗っている旅の仲間に手を振り続けるとき。

真冬の暗い街角、こうこうと明かりのついたスーパーに入って、その温かさにほっとしながら、今夜飲むハーブティーを手に取るとき。

フランスの田舎の内装がまっ茶色のレストランで、同じ色のこってりしたカスレを食べて、胃の底からその場所に溶けこむようだと思ったこと。

キラキラ光るミコノスの海と夕陽を見ながら、小さなストロベリーが入ったスパークリングワインを飲んでいたら、波しぶきが足にかかった、その潮の香り。

青空の下でどこまでも続くオリーブ畑を、ゆっくりと歩いて行ったこと。

レモンの木の下でウニのパスタを食べたこと。山の上まで細かい白い建物が立ち並んでいるのを見上げたこと。

風邪をひいて、熱を出して、一晩中汗をかいたバリの夜。朝陽の中すかっと治った感じがして、ふらふらで熱いお茶を飲んだこと。命が戻ってきたような気がした。

授賞式で盾をもらってオペラ座の舞台から見下ろしたら、大好きな友人たちが最前列でにこにこしていたこと。

自分の原作が舞台になって、ナポリの街の大きな劇場で、私の描いた登場人物たちがみんなで歌を歌っていたこと。すばらしい夢を見ているような、そんな感じだった。

全部が濃い緑色のトスカーナの丘の連なりの中を歩いて、古い教会に入ったこと。そのステンドグラスの素朴な美しさ。

タイの田舎のジャングルから、ピカピカの新しい電車に乗って、都会に移動したらまるでタイムスリップみたいだったこと。

ベルリンの古いホテルが寒くて広くて、じゅうたんの色が暗くて、映画のようだったこと。そこで秘書とふたりで小さくまとまって過ごしたこと。

乗り継ぎのフランクフルトでここぞとばかり、ソーセージとビールを短時間でかけぬけるように楽しんだこと。

ソウルのキンキンに冷えた冷蔵庫みたいな街で、くっついて歩くまわりの恋人たちの熱を感じたこと。家族で深夜にうどん屋さんに入って暖を取ったら、おじいさんが「やり方わかるかい?」とキムチをはさみでていねいに切ってくれたこと。

決して空港のつらさや旅の意外なトラブルがその輝きを引き立てているのではない。

それらはなにげない時間の連なりの中から突然に出現して、妙に心に残る宝物なのだ。

そのとき、私はいつも気づく。

そうか、ふだんの生活の中では心が鈍くなって、わからなくなっているのだ。

旅先でのそういう瞬間は期待もしていない、予想もしていない、心が真っ白になったときに降ってくる恩恵みたいなもの。できることなら日常でも、わずらわしさを超えて、そんな瞬間をたくさん持てるといいなと思う。

吉本ばなな
1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、95年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、海外での受賞も多数。近著に『吹上奇譚 第二話 どんぶり』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた単行本も発売中。

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