映画が描く宇宙時代の”遊び”と”夢”

映画評論家 小野寺系が宇宙/SF映画に見た遊びのあり方

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  • 2022.3.31 THU

SF映画、宇宙映画というジャンルの映画はこれまで数多作られてきました。多くの宇宙映画は戦争や危機、緊急事態など非日常が描かれ、遊びが生まれる日常は多くありません。ですが、未来のテクノロジーや無重量の空間は子どもはもちろん大人にとっても憧れであり、想像の羽根を広げるイメージの源泉でもあります。宇宙は人間にとってどんな存在であるのか。映画評論家の小野寺系が宇宙時代の遊びと人間の関係を探ります。

トム・クルーズが、2023年のうちに、ついに国際宇宙ステーションでの映画撮影に挑むという

 『ミッション・インポッシブル』シリーズなどで自ら危険なスタントシーンを演じてきたトム・クルーズが、2023年のうちに、ついに国際宇宙ステーションでの映画撮影に挑むという。他にも、イギリスの企業が映画や番組の撮影ができるスタジオを宇宙に建造する計画を進めているなど、映像表現の宇宙進出が、にわかに賑わいを見せ始めている。

 『2001年宇宙の旅』(1968年)で描かれたような気軽な宇宙旅行が可能になった未来は、まだ到来していないが、かつてSF映画が描いた人類と宇宙との関係は、それでも現実に近づいている。そして現在、人間と宇宙との関係の可能性を広げているのが、映画や観光という「あそび」の精神に基づいた文化であることは興味深い。ここでは、“宇宙時代における「あそび」”をテーマに、われわれの生き方はどのように変遷していくのかを、映画作品で描かれた宇宙の描写から考えていきたいと思う。

 ロン・ハワード監督の『アポロ13』(1995年)で、宇宙空間の無重力状態をリアルに表現するために、NASAの訓練用の航空機を軌道上で落下させ、人為的に発生させた無重力状態の中で撮影するという、これまでの常識を逸脱した撮影方法がとられたのは有名だ。宇宙と「あそび」といって、まず思いつくのは、このように体が宙に浮いた無重力空間を利用したものである。宇宙飛行士たちが狭い機内で遊泳などを楽しんでいる姿は、実際の映像でわれわれもよく目にしている。

 ブライアン・デ・パルマ監督の『ミッション・トゥ・マーズ』(2000年)で描かれたのは、宇宙船内で上下の感覚がなくなった中でのロマンティックなダンスだ。地球上では味わえない、重力から解き放たれるという体験は、誰もが一度は味わってみたいものなのではないだろうか。物理現象が全く異なる場所で、ダンスやスポーツなどの概念が根本から変化し、独自に進化していくかもしれない。

未来の宇宙技術が描かれる近年の作品でも、無重力表現が使われるケースはそれほど多くない

 とはいえ、その進化には大きな壁があることも確かだ。人間の肉体は無重力のなかで生活することに適していないため、長期間の無重力状態は人体へのダメージが予想される。それを考えると、人々がある程度無重力状態に慣れてしまえば、宇宙空間においても重力があった方が、なにかと都合が良いという考え方にシフトしていくのではないか。宇宙船や宇宙ステーションなどで使えるような「重力発生装置」もまた、実際に研究・開発が進んでいるのである。

 『スタートレック』シリーズや『スター・ウォーズ』シリーズなど、娯楽要素の強い映画やドラマでは、宇宙船には重力装置があることが前提となっている場合が少なくない。それはシリーズ当初、無重力を表現する撮影の難度の高さが影響していたことは言うまでもないだろう。だが、無重力表現が技術的に容易になってきているにもかかわらず、『密航者』(2021年)や『ミッドナイト・スカイ』(2020年)などがそうであるように、未来の宇宙技術が描かれる近年の作品でも、無重力表現が使われるケースはそれほど多くない。

 それはやはり、本格的な宇宙時代、長時間の航行をする乗員のためには、重力制御が必要不可欠であることを示しているのだろう。『パッセンジャー』(2016年)で、船内の男女が重力のある船内でバスケットボールやダンスに興じていたように、結局は「あそび」においても、地球上と同じく重力のある環境が求められることになるはずだ。そしてそれは、SF映画で無重力表現が中心になっていかなかったのと同じ流れとなるのではないか。

一見すると保守的な「あそび」の方が、むしろ本格的な宇宙時代においてはリアリティがあるということになるのではないか

 その意味では、『スター・ウォーズ』(1977年)のミレニアム・ファルコン内で、R2-D2とチューバッカが3Dホログラムを使った、銀河で大人気のチェス「デジャリック」に興じていたように、一見すると保守的な「あそび」の方が、むしろ本格的な宇宙時代においてはリアリティがあるということになるのではないか。つまり人類の宇宙進出における差し当たっての目標とは、自身の身体に合った環境や文化を、宇宙空間や異なる惑星など、地球外に拡張させていくということになる。それは、裏を返せば、人間が人間としての身体を持っているがゆえの限界が存在するということでもある。

 さて、『2001年宇宙の旅』(1968年)で描かれたのは、類人猿が人間に進化するきっかけだった。人類を見守る超越した存在が、地球上に謎のオブジェクト「モノリス」を配置し、現在の人類でさえも解き明かせない不思議な力によって、人類の進化を積極的に促したのである。「モノリス」に触れた、まだ「猿人」の状態である人類は“道具”を使用するようになり、その進化は宇宙技術開発まで発展していくことになる。この二つの進化の間にある時間を省略し、“道具”である骨が一瞬で人工衛星へと変わる演出は、スタンリー・キューブリック監督の天才的な仕事のなかでも、最も優れたものだといえよう。

 『2001年宇宙の旅』では、宇宙に進出した人類を、超越者がさらに導いていく。そして、宇宙船ディスカバリー号の船長ボーマンは、さまざまな試練を乗り越えた先で、人類の新たな飛躍的進化を遂げることになるのだ。そのような、猿から人間への進化、人間から超越的存在への進化は、知性を先に進ませる過程で、ただ生き延びて子孫を残すだけではない、限られた存在が次なる可能性に進むことができることを示している。オランダの歴史研究家ヨハン・ホイジンガは、そういった生物的特徴において「人間は遊ぶ存在」だと表現した。

 そう考えれば、人間が追求してきた「あそび」の延長に宇宙があったということは、必然的だといえるだろう。つまり、宇宙への進出そのものが、人間を人間足らしめる「あそび」ではなかったか。デイミアン・チャゼル監督の『ファースト・マン』(2018年)で描かれた月面着陸も、「月に行ってみたい」という、これまで地球上の何億人以上もの人々が無邪気に思った、「あそび」の発想の延長にあったものだと思えるのである。もちろん、その達成が現在の人類の生活を激変させたわけではない。むしろ、そんな人類の技術の歩みは、核兵器という、自らをも滅ぼす人工物を生み出すに至ったことも事実である。

無人となった建物を宇宙船の内部のように改造していく

 公開中のフランスの青春映画『GAGARINE/ガガーリン』は、パリ郊外に実在した公営団地「ガガーリン」をモチーフにした一作である。人類初の有人宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの名前を冠して建てられた巨大な公営住宅は、2024年を予定としたオリンピックのために、2019年に取り壊されたのだという。物語は、その解体直前の日々のなかで展開していく。

 主人公は、宇宙飛行士になることを夢見ながら「ガガーリン」で育った16歳の少年ユーリ。建物の解体計画を知った彼は、いまは亡き母親との思い出の場所を守るため、友人たちと一緒に建物を守ろうと尽力する。そして、無人となった建物を宇宙船の内部のように改造していくのである。それはまさに、子どもの「宇宙飛行士ごっこ」のようである。

 宇宙空間での制約を邪魔なものと考えるのでなく、危険で不便な宇宙への冒険そのものに憧れること……それもまた、宇宙へのアプローチの一つといえる。民間人が宇宙に旅立てる時代が到来しているいま、宇宙はより簡単に、より手軽に行ける場所に変化しつつある。しかし、宇宙が人類にとってスナック感覚になっていくことで、失われるものもあるのではないか。

 ディズニープラスで配信中のドキュメンタリー・シリーズ『密着!宇宙飛行ミッション』で、NASAのミッションに参加するべく訓練を重ねる、ベテラン宇宙飛行士の日常の姿が映し出されるように、本来宇宙を目指す者は、精神的にも肉体的にも頑強で、明晰な頭脳を持ち、厳しい鍛錬を積んだ人物だけだ。そんな人でも、宇宙に行けるチャンスは運に左右されてしまう。だからこそ、宇宙は世界の人々の憧れであり夢であったといえるのである。それが、大金を払った者から順番に行けるというのであれば、宇宙空間は超高級ホテルのスイートルームの延長でしかなくなってしまうのではないか。

トム・クルーズが危険を冒して宇宙空間で映画を撮るのは、けして損得のみを考えた大人の判断とは思えない

 かつての宇宙への夢が反映された団地「ガガーリン」が、オリンピック開発によって打ち壊される『GAGARINE/ガガーリン』の物語は、貧困地区の子どもたちが、それでも明日を生きるために夢を必要とする、人間という存在を描いていると同時に、経済活動によって宇宙へのロマンが破壊されていく、現在の状況を暗示しているともいえるだろう。

 冷戦時代、アメリカやソ連が宇宙開発を競い、人類を月に送り出そうとした理由には、軍事的な意味があったことは事実である。しかし、人類史上初めて宇宙から地球を眺めたガガーリンが、「地球は青かった」と語ったように、かつて宇宙は、それでも人間の純粋さを引き出す、真に神聖で特別な場所だったはずだ。そして、現在の宇宙飛行士たちが宇宙空間ではしゃいだり遊んでいる姿を見る度に、いまでも宇宙には、子どもの心を弾ませる何かがあるのだと感じられる。

 宇宙と人間との現実の関係は、数々の映画が予告したように、確かに縮まりつつあるといえるし、その先の未来をも、ある程度まで映画が暗示してくれている。その情熱の背景にあるのは、やはり「あそび」の精神なのではないか。トム・クルーズが危険を冒して宇宙空間で映画を撮るのは、けして損得のみを考えた大人の判断とは思えないのである。そんな感情を受け止める何かがそこにあるからこそ、われわれはいまでも宇宙に夢を感じていられるのではないだろうか。