ON THE ROAD

ぼくは、三多摩地区にある北多摩の小学校に入学し、中学も高校も同じく北多摩で、大学は三多摩の奥にある西多摩に通っていた。そして、学校のある駅から五駅戻った繁華街の蕎麦屋でアルバイトをしていた。

蕎麦は味も好きだけれど、あの、真っ直ぐに伸びている感じが好きだ。ラーメンは縮れているから駄目なのだ。ストレートな麺のラーメンもあるけれど、やはり蕎麦に限る。うどんは太いし弾力があるから駄目なのだ。それに比べ蕎麦は、色合いもアスファルトみたいだから、真っ直ぐ伸びた道のような感じがするのも好きなところだ。

好きな写真で、アメリカの一本道を写したものがある。それは、ロバート・フランクという写真家の作品だ。写真はモノクロで、擦れたアスファルトの一本道が写っていて、真ん中に蕎麦のように真っ直ぐなセンターラインがある。

その道は終わりがなくて、走り出したら、どこまでも続いていきそうだ。この写真を見たときぼくは、「いつか、こんな道を走ってみたい」と思った。あの道を走ったら、悩みや面倒な気持ちなんて簡単に吹っ飛んでいくだろう。なにしろ終わりがないのだから。

それにしても、サンタモニカのホテルで、ベッドで寝転がりながら、三多摩の思い出を蘇らせている自分は、いったいなんなのだろうか? そもそも悩みやしがらみ、それに付随したうずうずした気持ちを吹き飛ばそうとして、アメリカにやって来たのではなかったのか。

ぼくは二カ月前までスーツを着て働いていた。大学を卒業して、製薬会社に就職し、地元を出て都心にアパートを借りていた。

仕事は営業職で、毎日、あっちこっち歩きまわっていた。革靴で歩きまわるのは、さすがに疲れたけれど、最初は、スタミナが必要だと思い、学生時代の名残で、アパートに戻ってから、よく走っていた。

夜、夕飯を食べたら、小銭をポケットに入れて走りだし、帰りに自動販売機で缶ジュースを買うのだ。これがちょっとした幸せだった。千円札を折りたたんでポケットに入れ、タオルを首に巻いて走ることもあった。そのときは帰りに銭湯に寄って、釣り銭で飲み物を買った。走った後の銭湯は極楽の境地だ。

しかし一年間働いていると、そのうち走らなくなってしまった。仕事が忙しくなったのもあるし、酒場にも繰り出していた。もちろん酒を飲むのは悪いことでない。楽しいこともたくさんあったし、ウサ晴らしもできた。でも当時は、よく泥酔して、アパートに戻ると、泥にまみれた鰻みたいになって眠っていた。

仕事が二年目に突入したとき、ふと、この生活には終わりがないような気がした。どこかで終わりにしないと、ズルズル続いていくだろう。日々の生活がたたったのか、毎日、頭の中が濁っているようで、自分自身を覗こうとしても本心は霧の中に隠れているようだった。

そんな時期、営業の途中で、昼飯を食べるために立ち寄った蕎麦屋で、ざる蕎麦を食べていた。

箸でつまんで汁につけた蕎麦を「ズルズルッ」と勢いよくすすり、喉を通り越していったときだった。蕎麦の真っ直ぐが喉に引っかかるような気がして、「お前、どうするんだ?」と問いかけてきた。

その真っ直ぐは、まさしく、ロバート・フランクの写真にあった、あの道だった。そしてセンターラインだった。

とにかく蕎麦をすするたびに、「お前、どうすんだ?」「お前、グニャグニャだぞ」「このままで良いの?」「だいじょうぶか?」と問いかけてくる。まずいと思った。自分は、蕎麦とは対照的に縮れまくっていた。その縮れを正すように、翌日から、また走ることにした。

最初は前みたいに走れなくなっていたので、かなりショックだった。それから二カ月、毎日走り続けて、ようやく以前のように走れるようになった。

会社が終わってからも、アパートまで走って帰るようにした。途中で銭湯に寄って極楽を味わうこともあった。でも、まだなにかが物足りなかった。空まわりしている気がした。だから、ここら辺でさっぱりしなくてはならないと思い会社を辞めることにしたのだ。

三年間働いたけれど、未練もなかったし、思っていたよりも、すんなり辞めることができた。会社もアレコレ言ってこなかった。営業成績はいつも下の方だったから、結局、ぼくのことは必要ではなかったのだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。

とにかく物足りなさから脱するため、なんだかわからないモヤモヤから抜け出すため、まずは学生時代の友達のいるサンフランシスコに行って、アメリカをうろうろ旅することにした。

そこになにがあるのかわからなかったけれど、ボロい車はあった。そして一カ月車で走りまわってみた。天気は毎日良かったし、怪我もなくトラブルもなく、車の故障もなかった。

しかし現在、サンタモニカの安ホテルのベッドの上で、このように、うだうだしている有様なのだった。

ベッドで寝転がる自分の姿を俯瞰で想像してみた。どういうわけなのかわからないけれど、「SANTA MONICA HOTEL」とプリントされたしわくちゃのシーツ、その上でボサボサ頭に無精髭の自分が居た。さすがに「まずい」と思えてきた。

自分は、こんなことをしている場合ではないのだ。アメリカに来たのは、ロバート・フランクの写真のような真っ直ぐな道を走りたいとも思っていたからなのだ。荒涼として乾いた空気が流れている道を、加速をつけて真っ直ぐに走りたかった。

だから、あのような道を見つけたら、すぐに走れるようにと、ランニングウェアにランニングシューズは、ボロ車のトランクに積んである。でも、まだ一度も使っていなかった。それに一カ月間、ボロ車で走ってみたけれど、まだ、あのような道を見つけることはできていない。

とにかくベッドを抜け出そう。そしてすぐにホテルを出よう。うだうだしている場合ではないのだ。

熱いシャワーを浴びてから、荷物をまとめ、適当に着替えて部屋を出た。隣の部屋からは服があふれていたが、男と女の姿は見えなかった。隣の老人の部屋はドアが閉まっていた。エレベーターには、折りたたみ椅子を車椅子に乗せたお婆さんが乗っていた。

フロントで、部屋のキーを返して、チェックアウトをすると、香水のきついおばさんに、あと三日分の料金が前払いしてあるけれど、その金は返せないと言われた。「構わない」と答えた。

ロビーの椅子に座って本を読んでいるピンクのスウェット上下を着た男が、こちらを見て手を振ってきた。ぼくは手を振りかえした。

駐車場に行き、一週間ぶりにボロ車に乗った。キーを突っ込んでまわすと、「ボロロン」と音がした。エンジンはまだまだ快調のようだ。

地図をひろげて、どこを目指そうか考えてみたが、よくわからなかったので、とにかく車を走らせた。さっきまでベッドに寝転がっていた自分が信じられないくらいに、気持ちが焦っていた。でも走っていれば、きっとロバートフランクの写真の、あのような道は見つかるだろう。そうしたらぼくは車を停めて、ランニングウェアに着替え、ランニングシューズを履いて、なにも考えずに走り出す。

意味もなく、いや、あってもなくても、どっちでもいいけれど、とにかく走ろう。動物みたいに走ろう。コヨーテみたいに吠えながら走ったりもしてみよう。

右足が出て、左足が出て、最終的には右も左も関係なくなり、タイヤのようにぐるぐるまわって、速度があがっていくだろう。そして目の前では、なにもかもが真っ直ぐになっていく。

疲れたら立ち止まって空を見上げればいい。

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