Firefly

人間と火  文 • 深澤太郎

 パチパチと爆ぜる薪の音。微かに鼻腔の奥を刺激する煙の香り。次第に燃え上がり、激しく煌めいて二度と同じ形を見せることのない火焔。そして、この身を焦がす熱。そんな赤と黒のコントラスを見せる空間の中で、不思議な懐かしさを覚えるのは、わたし一人だけではないだろう。
 それもそのはずだ。火は、いつだって人間とともにいたのだから。いや、もっと正確に言えば、火の存在こそが、ヒトを人間にしてくれたと言ってもいい。

 そもそも、七〇〇万年前に産声をあげた初期の人類は、アフリカの密林で主に植物性の食物を食べて暮らしていたという。しかし、二五〇万年ほど前からはじまった寒冷化の影響で、アフリカの森林が減少して乾燥化が進むと、草原の草を食む動物たちや、それを獲物とする大型の肉食獣が人類の主食となった。
 これと併行して、人間の脳容量も飛躍的に増加し、次第に火の使用も覚えた人々は、生ものだけでなく、バーベキューや燻製などによる多様な加工食品を食べることができるようになったのである。さらに、粘土を火にかけることで作られた土器の出現は、生のものと、焼いたものに加えて、やわらかく煮込んだ食物を摂取することも可能にしてくれた。
 火は、神話構造を研究した人類学者のレヴィ=ストロースが明らかにした通り、生もののような自然的存在を、火にかけるという文化的行為によって「社会化」する存在。つまり、自然と文化をつなぐ「媒介」とみなされるのである。

 かくして、高蛋白の食物を摂取し、大きな脳を持つようになった現生人類は、物事のはじまりを物語る神話や、「いま」「ここ」とは異なる時空さえ想像できる能力を獲得する。例えば日本列島では、約一万六千年前に素朴な無文の土器が出現した後、五千年ほど前の縄文時代中期に入ると、中部高地の人々が特に立体的な装飾を土器に施すようになった。その中には、顔や手足の表現をもつ土器や、母体から子供が生まれつつある姿を現した土器も見られる。驚くべきことに、こういった実用性を度外視したかのような土器の中にも、実際の煮炊きに用いられた例があるのだ。
 要するに縄文人たちは、母体に見立てた土器の胎内で、狩猟や採集によって奪った動植物の命を煮込み、新たな命の糧を生み出そうと試みたのであろう。このように、命の再生は、火の働きによってなされるのである。

 実際、今日でも火祭は、小正月や盆のように、生命力の再生・循環と関係する季節の変わり目に行われることが多い。冷たい雪の積もる冬から、暖かな風の吹く春へ。暑い日の照る夏から、木の葉散る秋へ。そして、これらの時期に合せて火を焚くことで、一年の豊穣をもたらす年神や、家々の祖霊の送り迎えが行われるのである。
 興味深いことに、古い日本語では、生成化育の働きを産霊(むすひ)などと呼んでいた事実が示す通り、「ひ」という音でスピリットの力、霊威を表す。「ひ」は、「火」であり、「日」であり、「霊」なのである(ただし、火と日はアクセントが異なり、万葉仮名でも使い分けが存するように、古くは若干の発音の違いがあった点には注意を要する)。祭りで焚かれる火は、神々や祖霊を招く道標であるとともに、「日」の力を含めた霊魂の働きを象徴するものであったに違いない。

 そう、文字通り人間が焚いた「火」は、小さな「日」でもある。夜の闇や、屋内の暗がりを照らし、辺りの空気を温もらせ、昼でもなく夜でもない第三の時間・空間に集まる者たちの団欒を誘う。
 日本列島では、旧石器時代のバーベキュー跡と考えられる集石や、縄文時代以降の竪穴建物に連綿と見られる炉といった火処が、長らく人々の集う空間の「中心」にあった。この間、古墳時代中期から平安時代にかけてトンネル状の煙道を伴う竈が普及した結果、火処を竪穴建物の端に設けた例が主流となった時期もあったが、掘立柱建物が一般化していく平安時代後期以降は、煙道を失った竈が土間に置かれて炊事に特化した一方で、板間を切った囲炉裏が炊事・照明・暖房を兼ねた家の「中心」をなすこととなった。

 ちなみに、「火の起源」を物語る南アメリカの神話の一つによれば、人間がジャガーから火を奪い、焼いた肉を食べるようになった結果、ジャガーが生の肉を食べるようになったのだという。つまり、この神話では、人間にとっての火が、自然からの「借りもの」と考えられている。しかし、世界の近代化によって次第に「起源」を語られることがなくなった火は、単なる人間の「道具」と化し、調理も、灯りも、温もりさえも機械化されていった。長らく人類と付き合ってきた火は、わたしたちの暮らしの「中心」から遠ざけられてしまったのだ。

 けれど、人類の心に刻まれた原初の記憶は、火こそがヒトを人間にしてくれた存在であることを覚えている。わたしたちが、明滅する赤い熾火の姿に脈打つ命の姿を見出し、そんな火に焦がれてやまないのは、決して不思議な事などではなく、遠い祖先から受け継いだ「間歇遺伝」のなせる業なのである。

深澤太郎(ふかさわたろう)

一九七八年生まれ。山梨県出身。二〇〇七年より國學院大學にて教鞭を執る。文学部助手を経て、現在は國學院大學博物館准教授。専門は、日本考古学・宗教考古学。日本列島における国家と「神道」の形成過程や、日本独自の山岳信仰である修験道の考古学的研究に取り組む。プライベートでは、吉野から熊野まで行じる大峯奥駈などの山伏修行にも身を投じている。