Interview with Toshitaka Nakamura

241フォーカスInterview with Toshitaka Nakamura

新たに241Familyとなったスノーボーダー中村俊啓を訪ね、立山連峰の北西側、富山県は立山町へと向かった。

合流後、すぐ隣の上市町へ移動し、名物の素麺でも食べませんか? と誘ってくれたのでビジタースタイルでフォローアップしてみると、到着したのは、大岩山日石寺というお寺。境内を囲う森に踏み入ると、その空間だけグッと気温が下がったような空気の変化を感じられた。どうやら立山の山岳信仰の一端を担ってきた、この地にとって重要な寺院であるようだ。

「この上市町から見る立山連峰の剱岳は、まるで不動明王のような佇まいなんです。だからここの本尊は不動明王像なんです」

そう説明しながら、遠い上空に浮かぶように鎮座する剱岳を見つめていた俊啓。彼は現在、立山をべースにしながら登山ガイド、冬は滑走ガイドなどに従事し、一年を通して山で活動するライフスタイルを送っている。

そう聞くと、クライミングなどの登攀や登山と共にスノーボードを嗜んできたのかと想像しがちだが、面白いのは、23歳になるまで、立山に限らず山岳へは一切興味を持たず、プロスノーボーダーを目指して大会を転戦していた純粋なスノーボーダーだったという点だ。

その彼が、いかにして現在のような山一辺倒のライフスタイルへとスライドしていったのか。名物の素麺を頂きながら、聞き出すことにした。

—生まれも育ちも、富山県の立山町?

Toshitaka (以下:T) 「はい。59年生まれ、32歳になりました」

—子供の頃の遊びと言えば?

T 「自然環境が豊かなんで、その中で遊ぶことが多かったです。常願寺川という川まで自転車で行って泳いで遊んだり、とかですかね。とくに凝った遊びをしていたわけじゃないんですが、今でも深い場所を探しに行って泳いだりしています。この町の自然環境は昔と大きく変わっていないので、遊び方も大して変わって無いですね(笑)。移動手段がチャリンコから車に変わったくらい」

—今も昔もだいたい沢の中で遊んでいるんだね。

T 「確かにそうですね(笑)。綺麗な水に恵まれた富山は、自然との距離感が近くて、上手く付き合っていけばシーズンを通して自然の中で遊んでいけるのが魅力なんだと思います」

—幼少の頃からスキーは身近にあったのでは?

T 「立山町では多くの小学校のグランドに"スキー山"と呼ばれる小さい丘があって、体育でスキーの授業がある日は、朝、自宅からスキーを担いで登校するのが普通の光景でした。そうした環境に加え、僕の父親がスキーの選手だったこともあり非常に身近なものでした。でも本格的な競技に傾倒することもなく、あくまで遊びの延長として捉えてました。それも中学生くらいまでですかね」

—スノーボードに出会ったと?

T 「そうです。スノーボードがすでに流行り出していて、スキー場で見るスノーボーダーがカッコ良かったんです。やりたいな~と思っていたら、今でも一緒に滑っている仲間の太郎(古川太郎 / PRANA PUNKSライダー)や周りの先輩たちが一緒にやろうよと誘ってくれて。一発でハマっちゃいましたね」

—そこから始まったスノーボードライフとは?

T 「ひたすら地元のスキー場で滑る日々だったんですけど、大学生の頃にはプロになりたくてパイプの大会を回ったりしてました。雪の無い季節は学校行きながらバイトで金を貯めて、冬は岐阜をメインにパークディガーをしながらパイプの大会に出る、という生活です」

—富山にパイプは無かったの?

T 「無くはなかったんですが、パイプのクオリティを求めると、岐阜・奥美濃の高鷲スノーパークだったんです」

—パークやフリースタイルへ熱を上げていた頃は、富山じゃ物足りなかったのかね?

T 「山に囲まれた地理条件なんで、情報の伝達が緩やかだったとは思います。トリックひとつとっても、少し遅れて入ってくるような環境でしたからね。大会出てプロを目指すなら、岐阜だなと。まあ、結果プロにはなれずでしたけど」

—シーズンを通して立山に関連する仕事に従事する現在とは、違った暮らしだったんだね。

T 「地元の魅力に気付けたのは23歳になってからなんです。スノーボードで大会に出ることを止め、富山へ帰ってきて春の立山で働き出したことがキッカケです。子供の頃に立山登山の経験はあったんですけど、雪のある時期はその時が初めてで。こんな海外みたいなロケーションが地元にあったのかと驚きました」

—スノーボード自体の捉え方が変化したのもその頃から?

T 「それまではボードを背負って登ること自体に"何で?"と思っていたんですけど、実体験したら、道具を使って登り、そして滑る、という一本にものすごく価値があるということが分かったんです。それまでのスノーボード観がガラっと変わりました」

—ネイバーフットのポテンシャルがそうさせたんだね。

T 「地元にこんな山があるってことは凄いことだなって、気付けて良かったです。夏から秋、そして春とずっと楽しみ続けられる環境ですからね。まだその当時は今ほどバックカントリーを楽しむ滑り手も少なかったですし、ここを地元の人間がもっと活用していけたら素晴らしいと思うようにもなりました」

—その発想が現在の夏山ガイドという仕事に繋がっているの?

T 「滑り目的で山へ入るようになったタイプなので、雪の無い季節に楽しめる遊びとして、登山をしてみた。それがキッカケで夏山にも魅了されました。だから山小屋での仕事に就いたんですが、山にいるけど山へ行けないというジレンマに入ってしまって。そこからガイドの資格を取ることを決め、常にフィールドにいられる道を選びました。立山は山岳信仰で栄えてきた山なので、山案内人の歴史も長いんです。立山町近郊にはシェルパ村のような集落があったほどですから。そうした歴史的背景や先人達の道程を学べば学ぶほど、自分は中途半端なことはできないな、と身が引き締まるんです。だから、滑ることと同様に登ることも、学ぶことも、真剣に続けていくこたが大事だと思っています。やっぱり地元の山は地元のガイドが案内するのが一番素直じゃないかと思うので」

—映画『劒岳 ー点の記ー』で、明治時代末期の山案内人、宇治 長次郎さんによる剱岳初登頂が描かれるような、深い歴史が刻まれている場所ってことだもんね。

T 「長治郎谷や、平蔵谷、源次郎尾根など、名前や屋号のついた数々の地形が表す通り、先人達が切り拓いてきたフィールドです。その先端に自分が立つわけですから、やりがいはありますよね。ただ毎日ガイドをしているわけではなく、黒部ダムの下に繋がる下ノ廊下という登山道の道直しをしたり、立山駅にある登山研究所で次世代の学生山岳部リーダーを育てる研修のお手伝いなんかもしています。どれも立山に関連する山の仕事ばかりですが」

—冬山の滑走ガイドは?

T 「立山以外で少しずつやらせてもらっているんですけど、まだまだこれからという感じです。自分はスキーガイド1という資格は持っているんですが、森林限界を超えた立山では、本来スキーガイド2の資格を取っている必要があるので、今、その資格を取る準備をしているところです」

—立山がクローズしているハイシーズン中はどこを滑っている?

T 「滑走ガイドの仕事を岐阜エリアでおこなう以外は、基本的には富山県内で滑っています。先輩の畔田正志さん(GENTEMSTICK)がこのエリアで一番山に入っている人だと思うんですけど、そこに僕と太郎が付いていって地元のフィールドを開拓している感じです」

—富山の山の個性とは?

T 「低山が多いので、木が密だったり沢も急峻なV字だったりして、テクニカルな場所が多いのかなと思います。だから冬の滑走ガイド業をこのエリアでやる、というイメージはあまり持ってないんですよ」

—なるほどね。冬は滑る時間に重きを置いているんだ。

T 「そこは絶対欠かせないです。ガイドは週末だけにして、それ以外はフィールドに立つようにしてます。まだまだ自分の滑りを高めたい、って部分が大きいから、冬のガイド業に深く入り込んでいないとも言えますね」

—秋と春はずっと立山に上がっているの?

T 「雪のある期間はずっと山の上にいられるようにしてます。明らかに天候が崩れない限りは、室堂山荘にいます。昔、そこで働いていた好みで、今でも仕事を手伝う変わりにステイさせてもらってます」

—10年間接し続けている立山で、忘れられない1日とかある?

T 「ちょうど1年前の、11月30日、立山クローズの日の一本は思い出に残ってますね。朝一番のバスが室堂に到着するよりも前、前日の夜から立ちこめていたガスがまだ濃く残っていたんですが、"朝だけ晴れ"という天気予報通り、晴れそうな感じがしたのでひとりで国見岳を目指したんです。雪質も良く、標高を上げるにつれ徐々に雲の切れ間を確認でき、そのうえ風の影響で前日のラインはほぼ残っていない。登攀ラインも僕の前にウサギの足跡のみで、とにかくテンション上がりました。そしてピークに着くとちょうど雲が切れて立山カルデラから薬師岳が見えたんです。滑る面にはバッチリ陽が差していて、雪面がキラキラ輝いていました。

通常、11月の最後になると雪質が良くなる分、人のラインも増えるんです。でもこの日はイメージ通りにいった一筆書きのラインと、自分のハイクラインが刻まれただけ。最高でした。心に残るシーズンインの一本です」

—フォトグラファーのガクちゃんから、春に一緒に縦走したと聞いたけど、それはどうだったの?

T 「もともと、日本のオートルートである立山から槍ヶ岳まで行けたら良いね、という太郎とガクさんが立てていた計画に参加した感じです。まず今年はその半分、薬師岳まで行こうと。雪が少なく、滑れるところが極端に少なかったんで大変でした(笑)」

—もともと"滑る"ためのものじゃないでしょ?

T 「ずっと稜線を繋いでいくもので、斜面を求める感じでは無いんです。けど本来の降雪状況とタイミングであればもう少し板を履ける部分もあったはずなんですが、下りでもほぼ歩きってこともあったほど、雪が少ないタイミングになっちゃいました。5月の連休明けに天候が整えば理想なんですけど。今度の春はコンディションに恵まれたらいいですね」

—富山ベースで立山を見つめていると、一生楽しんでいけるんだろうね。

T 「立山に限ったことじゃないですけど、一生かけてもやりきれないでしょうね。立山で端から一本ずつ落としていくことを考えると、どれだけの年月を要するのか? というスケールですから。これからも、しっかりと山と向き合い、ゆっくりやり続けていこうと思っています」

俊啓が241へ加入したのは、美谷島 慎が声をかけたことに端を発する。

「スノーボーダーとして見てもらえたことが、すごく嬉しかったです。活動の大半が山の中だけど、僕はスノーボーダーなので」

滑走ガイドという生き方は、自分のための滑走時間がどうしても限られる。

スノーボーダーという生き方は、自分のための滑走時間だけに没頭できる。

両者の微妙なバランスの中で、スノーボーダーとしてのアイデンティティを貫く俊啓の今後の活動は、241に新たな風を送り込むことになるだろう。

ちなみに、241のメーカーであるゴールドウインは、富山で産声をあげた会社。

スノーボーダーである彼が、スノーボードウエアブランドの241に袖を通すことは、至極当たり前のストーリーなのだ。

Text : Die Go

Photo : Shin Otsuka, Gaku Harada




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