建築家・元木大輔の「遊び発見マニュアル」

vol.1 イントロダクション - 「遊具」とはなにか?

  • 遊び発見マニュアル
  • 2021.7.14 WED

 建築家の元木大輔が、世界と子どもの関わり方を注視し、大人が思わず「やめて!」と言ってしまう行為に潜む遊具化の可能性を引き出していく連載。第一回は、遊びの形式化からいかに脱するかという、この連載の根っこについて。

遊具ができる前から世界には遊びが内包されています

「遊具とは何でしょうか? 遊びとは何でしょうか?」

 今回の連載にあたって、とても大きなお題をいただきました。僕は普段、建築やインテリア、家具など空間のデザインを考える仕事をしています。運営しているデザイン事務所DDAAでは、レジデンスやホテル、オフィス、公園、リテール、飲食、美術館の会場構成、モビリティ、都市についてのリサーチなど、多種多様なジャンルのプロジェクトが進行しています。特定の分野に特化せず、プロジェクトによっては様々なプロフェッショナルと協働しながら、「すべてのプロジェクトで何か新しい視点や発見のあるデザイン」を目指しています。遊具や遊びの専門家ではない僕がなぜこのような連載を書くことになったのか、その理由を少しだけご説明します。

昨年出版した著書『工夫の連続 – ストレンジDIYマニュアル』で、僕が考える「デザイン」を次のように整理しました。

 “デザインとは「何かをよりよくする工夫」そのものだと思う。今ある現状が少しでもよくなるように

考えをめぐらせ、工夫すること。その行為自体がデザインだ。”

元木大輔『工夫の連続 – ストレンジDIYマニュアル』(晶文社 2020年)

 デザインを「工夫」と考えることで、クリエイティビティやものづくりは特殊な技術や才能ではなく、普段から行っている日常的な行為ととらえることができます。そもそも、遊具ができる前から世界には遊びが内包されていました。木に登り、川に飛び込み、ビーチの砂で何かを作り、斜面を滑り降りると「楽しい」という気づきがあり、その世界に既に内包されていた「楽しさ」を繰り返し体験したいという欲求が生まれ、安定した楽しさを享受するための機能と形を考えるようになる。恐らく何世代にも渡るそのような発見と工夫の連続によって「遊具」が生まれてきたはずです。

新しい遊具を形から考えるのではなくて、
できるだけ根源的な状況から考え直してみるのはどうか

形式化した遊びを越えて

 すでに批判されつくしたきらいもありますが、現代の多くの公園には、たくさんの注意書きの書かれた看板が立てられています。ほとんどすべての行為が禁止された公園は、コンセプチュアル・アートかな、と思うほどです。そしてすこしずつ、公園からいくつかの種類の遊具が消えています。その背景には事故が起こるたびに業界内で安全基準が設けられ、危険と判断された遊具は撤去されていき、次に作られる公園や広場では採用されなくなるからです。この遊具の安全基準は、ブランコは揺動系遊具、シーソーは上下動系遊具といったカテゴリーごとに、柵はこうしましょう、金具はこれを使いましょうと指針が設けられています。この遊具はこのように遊ぶ、というように、遊びが画一的なものに形骸化してしまっています。禁止事項ばかりが増え、遊びが定型化している現代では、遊具のデザインは制約がとても多く、なかなか新しい形式が発明されづらいようです。

 僕たちは既に遊具が存在している世界に住んでしまっています。そこで、新しい遊具を形から考えるのではなくて、できるだけ根源的な状況から考え直してみるのはどうか。滑り台を例に出すと、コンセプトや気付き「滑ると楽しい」をまず発見して、「滑るための形」を考えるという順番で考えてみたいと思います。

遊びは形式的に決められた行為ではなく、
それ自体を発見するようなものだったはず

遊びをデザインする

 いま僕たちは長崎県波佐見町に、波佐見焼の陶磁器メーカーであるマルヒロと一緒に「ヒロッパ」という公園を作ろうとしています。ここで僕たちがデザインしたのは、遊具というより「地面」そのものです。

 たとえば、人がこしかけたり、滑ったりするきっかけのある斜面を土を盛ってをつくり、その上部に日陰を作るためのパーゴラ(植物を絡ませられる日陰棚)を設置しました。上の画像にあるように、傾斜地を手前に下って来ると細かく砕いた陶器の砂でできたビーチがあります。そこでは砂場遊びや、夏には水を貯めることで水遊びもすることができます。実は、安全基準をうまくデザインのきっかけにした新しい遊具のデザインも多々検討していたのですが、途中から地面のレベル操作だけで公園のキャラクターを作れないか、と考えるようになりました。「地面の操作」というアイデアに至ったのは、単純にコストの問題も大きかったのですが、用意された遊具ではなく、もう少しプリミティブな広場を考えてみたい、と思ったことも大きな理由です。

 先程書いたように、整備された公園や遊具がなかったころ、遊びは形式的に決められた行為ではなく、それ自体を発見するようなものだったはずです。「ヒロッパ」でも、プリミティブに遊びを発見できる環境をつくりたいと思っています。

 ところで、僕は先程、デザインとは「何かをよりよくする工夫」のことだと書きました。今回にとっての「何か」とは、楽しさや遊びそのものです。楽しさや遊びそのものを発見することは、遊具をデザインする最初の一歩なのだ、と言い換えることができます。形式にとらわれず、遊ぶ状況を発見しデザインすること。これがこの連載の主旨です。

大人が「やめて」と思う子どもの行動、その瞬間を
「子どもが環境を遊具化している」ととらえ直す

「やめて」から考える遊びのデザイン

 遊具とは、一度発見した楽しさを繰り返し安全に楽しむための装置です。つまり安全性を考慮した形状や素材が選択されています。遊具としてデザインされる以前の状況や環境を、遊具的に遊ぶ姿を目にすると、大人は事故を想像し子どもに「やめて」と言ってしまいます。安全や迷惑を考え、危険を回避するための反応ですが、先回りして禁止することは、注意喚起看板と同じく遊びの可能性を狭めているとも言えます。そこで、これを逆の視点から考えてみることにしました。 つまり、大人が「やめて」と思う子どもの行動、その瞬間を「子どもが環境を遊具化している」ととらえ直すところからデザインをスタートするのです。

 この連載では、大人が「やめて」と思う子どもの行動を採集し、その瞬間を(もちろん安全性を考慮したうえで)遊具化することができないかを考え、提案していきます。逆にいえば、「あらゆるものが遊具になりえると考える」ことで、新しい遊びを見つけることができるかもしれません。そうしたことを思いながら生活していると、これは遊具になるな、こうすると遊べるな、と気づくことが沢山あります。この連載を通して、そんな視点をお届けする予定です。僕もすでにワクワクしています。ご期待ください。