「僕の話は30年前には笑われていた」後編

自然界の報道写真家・宮崎学が撮った動物の遊び場

  • FEATURE
  • 2021.8.11 WED

【後編】

 地球上に生きているのは人間だけではないわけですが、というよりも、地球で生きている生命のうち、人間はごく一部であるにも関わらず、そのほとんどを我が物顔で利用し、消費し、環境を自分たちに都合のいいように変えてきました。

 環境の変化に対応できずにいなくなる動物もいれば、好奇心と警戒心を合わせ持ちながらたくましく環境に適応してきた動物たちもいます。「自然界の報道写真家」として、動物の生態や行動を50年近く撮り続けきた宮崎学さん。宮崎さんが、自分の身体とカメラを通じてみていた環境と動物の関係と変化。

 後編は、自然と人工環境が混在する場所での動物のことから再びうんこのことまで(前編はこちら)。

動物が里派と山派に分かれている

 動物の活動範囲が変わってきたのは、人間が環境を大規模に書き換え、自分たちの生活様式も変化させてきたことにも由来しています。

 「日本は、戦後70年の間でライフエネルギーがほぼすべて電気、ガス、石油に切り替わりました。1950年代後半から60年代前半には、国策として日本中の山の木を切り、新たに植樹をしました。その結果、日本中びっしり密な山になって、国土の80%近くが森になりました。森林飽和、森林過多は動物たちにとって、住処が充実していて、食べ物が豊富にあるという状況を意味します。間伐など維持管理の費用的な問題もあって利用価値が薄れた山の手入れがなされず動物は増えています。頑なに昔からの生活をしている動物たちもいれば、ナシだリンゴだモロコシだと農作物を狙って出てくるものも。動物が里派と山派に分かれている。そういう視点では様変わりしています。」

子猿はやっぱりターザンごっこをしています

 都会ではネズミが電線を齧る事例などもよく起きているほどネズミはたくさんいます。アーティスト集団のChim↑Pomは新宿歌舞伎町に生きる殺鼠剤への耐性を備えたネズミ(スーパーラット)たちをピカチュウに仕立てるプロジェクト「スーパーラット」もやっていました。

 「ドブネズミやクマネズミ、ヒメネズミなど新たな環境を喜ぶ生物、人がたくさんいるところを喜ぶ生物がたくさんいます。コンクリートや下水がある環境は、動物にとって住みやすい環境なわけです。食べ物の残滓や廃棄も絶対にいろいろなところにありますしね。電気配線を増やし続ければ、ハクビシンなんかは電線を渡って移動しています。そのような行動をずっと前からわかっていたけれど、住宅街だと人の視線が厳しいから撮影ができなくて、記録して証明できずにいるんです。」

偶然撮れるのではなくて、
こういう写真を撮りたいと思った場所にカメラを仕掛ける

 動物はそうやって、馴染む環境を自然の外に見出し、第二の自然として当然のように生活をしていく。自然界にはない素材が新しい遊具として機能し始めることもあります。

 「ニホンザルはおもしろいですね。子猿はやっぱりターザンごっこをしていますよ。山の中の古い別荘地に仕事場があるんですが、近くで若い人が古い別荘を買って住み始めてたんです。薪ストーブのために廃材がたくさん用意してあって、その廃材を濡らさないためにブルーシートが屋根からタープみたいに掛けてあったんですね。サルがそのシートを滑り台にして登ってはツルン、登ってはツルンと遊んでいました。大人はやらなくて、1歳位の子猿だけがやるんです」

 サルにとっても「なんだこの滑るもの」はという発見だったはず。人間の子どもがそんな遊びをしていたら親はすぐに止めそうなものですが、猿の子どもは与えられた環境をそのまま遊び倒します。

 「そう、遊びから学習していくんですよね。人間の場合は危ないとかダメと抑える方法をまず考えてしまいますよね。例えば、子どもがミミズをたくさん捕まえて『ママ−』と来た時、親は『うわー!気持ち悪い!』と言ってしまえば、子どもはそういうものとしてミミズも捉え始めます」

 サルがそうやって遊ぶ姿を撮れるのは、無人のロボットカメラを置いておいてたまたま撮れるものなのか、狙いしましているのでしょうか。

 「両方かな。そもそも闇雲に無人カメラを置いているわけではないんです。自分の裏付けがあってのこと。偶然撮れるのではなくて、こういう写真を撮りたいと思った場所にカメラを仕掛けるわけです。デッサンや絵コンテで物語のあらすじを考えるようなものでで、絵コンテは当然カメラを仕掛ける前にできています。そういう意味で両方組み合わせてやっていますね。」

 動物たちも見たことがないものに興味があります。

 「クマがカメラを覗きに来ることもよくあります。クマがカメラを壊す動画もけっこうありますよ。動物たちにとっても遊び感覚なんでしょうね。」

(兄弟姉妹が死に)残された一頭は遊ばなくなるんです。
お母さんにぴったり寄り添うようになってしまう

山の中に鏡を置いて動物がその鏡を見たらどんな反応をするか

 「最近実験をしていて、山の中に鏡を置いて動物がその鏡を見たらどんな反応をするか、写真と動画で記録しているんです。テンやハクビシンは平気で歩いています。この前は3歳くらいのツキノワグマが歩いてきたんです。鏡の周りをウロウロしてから鏡の前まで動いて、鏡に写る自分の姿を見た瞬間「ビクッ!」となって一気に逃げていくんです。雄の子熊は大人の熊に食べられてしまうことがあるので、自分とは別の熊がいたことに危険を察知して逃げたんだと分析しています。」

 動物は好奇心をもって様々なことにチャレンジしていくけれど、遊びが可哀想な結果を引き起こすこともあると言います。

 「人間がいる環境は、だいたい人工物と自然物が混ざり合っていますよね。イノシシは多いと十頭くらいの子ども=うり坊を連れていますけど、本当に遊び心が旺盛でずっと追いかけまわって遊んでいます。近くに三面張りでコの字型のコンクリート水路があって、うり坊が気づかず『ドボン』と落ちちゃったんですね。深さ50cm〜1mくらいの農業用水が流れていて、1km以上続く長さがある。コンクリートなので、一定の深さで一度溺れちゃうとずっと溺れたままになってしまうんです。川なら浅いところも深いところもあるから、流れ次第で止まることもあるけれど人口の水路はそうならない。最初5、6頭いたうり坊が、ある時一頭だけになっていました。残りは水路に落ちて死んでしまった。そういう時、親は探さないんです。そのための多産でもあるわけですから。結局残っている一頭を大事に育てるようになるのですが、そうすると残された一頭は遊ばなくなるんです。お母さんにぴったり寄り添うようになってしまう。」

 一人っ子が大事にされ、冒険をしなくなってしまうという。生命をつなぐという意味では危険を避けるのは必要なことなのかもしれません。

 「非常に保守的になって、用心深くなります。遊んで身体で覚えることを忘れて、外からの教育や情報だけで生きていこうとしている感じがしています」

子熊は身を守るためにも木に登る

柴犬を見ていると相当いろいろなことが発見できます

 身近な動物である犬を通じて自然が見えてくることもあります。

 「僕は日本犬が好きで柴犬を飼っています。日本犬は縄文時代からいると言われていて、そのルーツを引くのが柴犬。一緒に山に入るんですが、柴犬を見ていると相当いろいろなことが発見できます。」

 古い習性を残す犬の行動から、動物と環境の関わりが示されるということ。

 「ツキノワグマが8月頃に出てくると親子でクルミを食べるんですね。親は身体が重いから木には登らず、子どもが登って上から実を落とします。ある時、犬と山に入ったらある木の前で明らかに警戒しているんです。その後、10日ほど定点で置いたカメラを回収して動画を見たら、熊が登った木でした。そこに写っていた熊の姿で犬の警戒行動が正しかったと証明されたんです。そうやって事実起こったことや撮れたものから分析していくのが僕のスタイルなんです。」

 熊が木に登るのも、子どもしかできないという意味でも遊びのような感覚もありそうですが、他にも大事な意味があります。

 「子熊は身を守るためにも木に登るんです。雄の子熊は雄の大人熊に山で出会うと食われてしまうことがある。だからそのために木に登る練習をしておかなきゃいけない。メスの方が子孫を残さなきゃいけないから殺されないわけです。二頭の子熊が生まれて一頭がメスだと、メスは1年くらいで離しちゃうんです。雄の子熊は守るために母親の側に置く。雌熊は殺されずに済む事が多い。立木に熊の爪痕がある。どうしてと思うと、子熊が木に登った形跡なんです。」

 森の中で木登りする熊を見れば、木を登るんだという驚きとしがみつく姿に可愛さを感じる人もいるかもしれないが、人間の生活圏で木登りする熊を見れば、それは途端に逃げられない怖さにも変わります。

 「学者さんの検証はまだですが、ツキノワグマは低い低周波のような、喉声のような音を出していると僕は考えています。子熊や犬は、100m近く離れていてもそれを聞き分けます。かつては多くの家庭で庭に犬がいましたが、今では飼っていても室内飼いがほとんどです。だから猪や熊が庭先に躊躇せずやってくるようになった。以前なら犬が先に察知して吠えて追い払ってくれていましたから。」

 番犬が番をしているのは、泥棒だけが相手ではなく動物同士でもあるということ。

飽食でみんないいものを食べてはいるけれど、
排泄物のことは考えていない

みんな排泄物のことは考えていない

 コロナウィルスによって自宅で過ごす時間が長くなったここ2年。宮崎さんが住む自然豊かな長野は移住先としても人気ですが、外出するとしても人混みを避けて自然のなかへという選択肢を選んだ人もいたかもしれません。宮崎さんは、大変な状況ながら自宅で過ごす時間が増え、好きなことに没頭できるようになった子もいるのではないかと言います。

 「コロナになって自宅学習になった子どもたちは、家族含め大変なこともたくさんあると思いますが、中には遊ぶように好きなことばかりをやっている子もいます。人間の原点のような、自分の興味や好奇心から始まる探求や研究。さらに5Gも普及していけば、もう学歴は関係ない。これから10年後以降いろいろな天才が出てきそうで楽しみでもあります。」

 コロナ自体はまったく嫌なもの。だけれど、リモートワークの普及などコロナによって生まれた状況の中には、未来を生きる可能性が多分に含まれていると宮崎さんは言う。ただここで宮崎さんが考えているのは、「人間の原点」という言葉に象徴されているのではないでしょうか。

 「飽食でみんないいものを食べてはいるけれど、排泄物のことは考えていないんですよね。水洗トイレで流しておしまい。生きる基本は『食う・寝る・野糞』で、排泄物まで意識しなければいけません。僕は30、40年くらいトイレを使っていないんです。野っぱらに行って、野糞をしています。5月から10月くらいであれば、健康な良い土のバクテリアがいて、10cmくらいの窪みを靴で作って、そこで用を足す。土をかぶせておくだけで、あっという間に分解してくれて24時間で匂いも形もなくなります。動物の死から土に還るまでを撮った死の写真もそういうところから来ています」

動物だけでなく植物も虫も微生物も互いに補い合っています。
自然界ではそれが当たり前。
そういうことをみんな忘れています。

 自身の生身の体験から動物の世界に意識を拡張し、写真につなげる。自然界の全体性のなかで、人間である自分を特別な存在とせず、動物をやさしくも鋭い目で見つめています。

 「動物の死後、新鮮な生肉の状態が好きな肉食動物がいれば、腐敗したところが好きなと動物も、死体が溶けてドロドロになったところが好きな動物もいます。スカベンジャーとして分解処理にそれぞれ出番が決まっているんです。そうした食う、食われるの関係の中に、腐敗して出てくるウィルスや病原菌を食べて解毒していくシステムが内包されています。それを人間である自分も自ら体験しながら学んでいます。自然界の確かな見方やカメラ技術、アプローチ方法などを共有していく『gaku塾』では、自然の循環と野糞の話をするんですが、ほとんど野糞経験のない人がすごくおもしろがってくれる。むしろ若い子の方が関心を持ってくれています。動物だけでなく、植物も虫も微生物も互いに補い合っています。自然界ではそれが当たり前。そういうことをみんな忘れています。自分の写真活動は、そういうことに気づこうという実践的な表現なんです。」