07 成瀬 洋平 -イラストレーター・クライマー-

セルフビルドで建てた小屋で絵を描き、文章を書きながら、岩に登る日々。イラストレーターとしての顔、クライマーとしての顔をもつ成瀬洋平さんはどこに向かっているのだろう。岐阜の山中にある彼のアトリエを訪ねた。

岩登りも絵も。クリエイティブに生きる

岐阜・中津川の里山で、絵を描いたり文章を書く仕業をしながら、クライマーとして近郊の岩に通う暮らしをしている成瀬洋平さん。
大学卒業後の数年間は東京での生活も経験している。会社勤めを経て、フリーランスで山や旅をテーマにしたイラストレーター・ライターとして東京をベースに活動していたのだ。その頃のことを、心の行き場がなかった、と振り返る。

「フリーランスになって山に行く機会は増えたのですが、取材だとそのルートを歩いてとんぼがえりで帰ってきて、すぐに絵や原稿を仕上げる。そういう生活でした。山にはスケッチブックも持っていくのですが、向こうで描いてゆっくり過ごすという時間はなかったんです。それに、アパートの中で朝から晩までずっと一人で作業するというのは結構きつかったですね。ちょっと一息、と思って窓を開けてもコンクリートの壁で、空もせまかった」

現在成瀬さんは、実家から数百メートル離れた場所にセルフビルドで建てた小屋をアトリエにしている。雑木林に囲まれた小屋では、車が走る音も、隣の人の生活音もきこえない。窓を開ければ森の中にいるような感覚になる。「絵を描いているとカサカサと音がして。ウサギやタヌキ、キツネが出てくることもあるんですよ」と成瀬さん。

東京にいる時は人とも会わなくなり、きつい時期だったと成瀬さんはいうが、そんなとき、子供の頃に過ごした自然豊かな故郷のことが思い出された。学校帰りに見た夕方の暮れゆく空の美しさや、幻想的な木の影のシルエット。そういった日常的に見られたものを再び欲するようになり、2010年、東京での生活をやめ、故郷にUターンすることを決めた。

いさぎよい決断に思えるが、仕事の基盤が不確かななか、不安はなかったのだろうか。そう投げかけると、曇りのない表情で言葉が返ってきた。

「まだ2年でしたし、こちらで同じような仕事を続けられるのだろうか、とは思いました。ただ、実はあまり不安はなかったんです。それよりもこのまま小さなアパートでつづけていくことのほうがどんどん悪い方向に行くな、というのは直感で分かっていましたから」

Uターンしてクライミングを再開

東京から中津川に戻ってきて、10年と少し経った。収入的には減ったが、戻ってきたことを面白がってくれる人もいて、少しずつ新しい仕事にも挑戦しながら、充実した生活が送れているという。その大きな要因がクライミングを再開したこと。

実は成瀬さん、中学生の頃にクライミングに触れ、高校時代には家の車庫に自分で壁を作ってしまうほど夢中だった。東京時代はときどきジムに行く程度だったが、Uターンするタイミングで、近郊にある笠置山クライミングエリアが公開され、思い切って登れる岩場ができたことを知る。

「はじめの1年ほどはプライベートで山に行くとか、クライミングをする時間はあまりなかったのですが、せっかく引っ越してきたし近くに岩場もあるのだから、そういう時間を大切にしたいなと。それで、もっとしっかりやりたいなと思って本格的に始めたんです。正直なところ、もうあまり上手くならないかなと思っていたのですが、少しずつ上達もしてきました」

天気がいいときには、午前中にアトリエでの仕事を終わらせ、午後から山に行くこともあるという。今では笠置山クライミングエリアを主な拠点に、各地の岩場でフリークライミングの講習会、体験会を行なうまでになった。

でも、絵や文章の仕事とクライミングをすることの関係性は、いわゆるオンとオフというのとは、ちょっと違うようだ。
東京でフリーランスになった当時は、歩いた山の絵を描き、原稿を書くことがメインの仕事。その頃は、前出のようにクライミングをしなくなったこともあって、クライミングと絵の接点はなかった。

「高校時代、一時期はクライミングにかかわる仕事も考えていたのですが、高校3年で進路を考えるようになり、自分は絵を描きたいと思ったんです。それに文章を添えて、自分が出かけたところを、絵と文章で表現したいと。それで、クライミングに向けていた時間や情熱が、完全に絵のほうにシフトしたんです」

美大に行かなかった成瀬さんは、絵で食べていくには、絵に対して対価を払ってもらえるクオリティを保たなければいけないと、とにかく毎日描いた。それしか方法がないと思っていたし、体を使うスポーツのようなクライミングと絵の接点も見つからなかったからだ。つまり、クライミングを熱心にしなくなったのは、実は絵がきっかけだったのだ。

絵とクライミングの接点

でも、地元に戻ってきて、絵の仕事をしながらクライミングに向き合う時間が増えたことで、徐々に意識が変わっていった。

「また登るようになって、ある程度上達してきたとき、そろそろクライミングの絵も書いていいんじゃないかな、と思い始めました。クライミングをしに山へ行った時、山の中の壁を登っている情景だったら絵にできるなと思って、そこで初めてクライミングの絵を描きました。それまで描いてこなかったのは、あまり登っていないのに仕事でその絵を描くのはどうなんだろう、という思いがあったんでしょうね」

絵とクライミング。今まで切り離されていた成瀬さんが夢中になれるものが、こうしてひとつにつながった。そしてもうひとつ、ただ岩を登るだけではなく、岩のルート開拓に関わるようにもなったことも、充足感を得られるようになった理由だという。

「岩場を見て、このライン面白そうだなと思ったら、掃除して、そこを自分で登るというのは、クリエイティブな要素がすごく大きい。ルート開拓に関わりだしたことも、絵を描く行為とクライミングという行為の接点になってきたんじゃないかなと思っています。そう考えると、さきほど山のクライミングだったら絵になるんじゃないかと言いましたが、近くの笠置山のボルダリングでも絵になるなぁと思いはじめています」

すぐに岩場に行ける環境で生活することによって、クライミングが日常的に暮らしの一部として楽しめるようになった。そして、クライミングに対する意識や、絵との接点が自分の中で見えてきたと成瀬さんはいう。

「これまでの10年は、アトリエの小屋を建てたり、笠置山の開拓とか、そういうことに時間を割いてきて、ようやく生活の基盤、創作の基盤ができてきたなと思います。これからはもう少しこの場所をベースにして、遠くに出かけて絵を描いたり文章を書く機会を増やしていきたいですね」

ルート開発ではないけれど、心地よく暮らすための道筋を自らの手で切り開いてきた成瀬さん。どんな絵や文章、クライミングで私たちの五感を楽しませてくれるのだろうか。これからの活動に注目したい。