火と子どもと祭りの今昔

柳田国男『火の昔』を手がかりに

  • FEATURE
  • 2021.10.20 WED

お祭りの火や囲炉裏、かまどの火、家を明るくするろうそく。火は家族や共同体のなかで、人と人、人と土地、人と歴史を結ぶとても大切な存在でした。電気やガスのなかった時代の火と人々の暮らしを、生活史として書いた民俗学の祖、柳田国男の『火の昔』。現代の民俗学のあり方を提示し続ける民俗学者の畑中章宏が、その『火の昔』を手がかりに子どもと火はどんな関係にあったのか紐解き、”空ろな場”で起こる未来の可能性も示してくれた。

「火」の獲得とその制御について、子どもはどのような関係を取り結んできたのか

●子どもと囲炉裏

 「火」を獲得し、「火」を制御する術を知ることで、私たちは食物を煮炊きし、夜闇でも明るい生活を送ることができるようになった。「火」と私たちのこうした交渉は、科学史や人類学のような、大きなスケールやスパンで物語ることも可能だが、身近な生活に即した民俗学の視点からここでは素描してみたい。またもうひとつ、「火」の獲得とその制御について、子どもはどのような関係を取り結んできたのかも、これから語っておきたいことである。
 日本の民俗学を確立した柳田国男は、1944年(昭和19)に『火の昔』という本を出している。日本列島に住んできた人びとが、「火」とどのような関係を取り結んできたかについて、柳田は太平洋戦争のさなか、子どもにでも理解しやすい、やさしい文体で書いたのだった。

 「日本の平たい炉端は、煙りが家いっぱいになるのは困りますが、それでも並んでいてお互いの顔が、残らず見られるのは都合のよいことで、その顔が赤々と焚火に映るのですから、これでこそ一家団欒(だんらん)という言葉が、割引きなしに通用します。」
 柳田は、家族がそろって囲炉裏(いろり)を囲むという行為・慣習は、屋外で火を燃やしていた大昔の夜の過ごしたかたと、最も近い形式だという。日本列島民が家の中に床を張って住むようになって以降、火を初めて得た太古の集まりかたを続けたいと苦心した結果が、囲炉裏をめぐるこうした形になったのではないか、と柳田は想像したのだ。

●火の周りで生まれる「歌」と「言葉」

人びとは、火を焚く家さえ持っていれば、だれでもが「身」と「心」を休めることができた。
 「そうして火を焚けば必ず昂奮して、いつまでも話をして睡(ねむ)らないということであります。人が近くに顔を見合わしつつ、続けて物を言うようになった始まりは焚火の傍かも知れません。話と炉端との因縁は深いものがあったようです。」
 「火」を囲むことで「身」と「心」の休息を得るとともに、人びとは「身」と「心」を許して話しをし続けたのである。そして、父母が仕事に出ているとき、囲炉裏の周りに取り残された祖父母と孫のあいだの密接なつながりが生まれた。
 柳田によると、年寄りが小さな子どもを愛するそうした時間にも「刻限」みたいなものがあった。夕方、外の風が冷たくなるころから、家の中には赤い火が燃え始め、母親が庭に下りて忙しく立ちまわっているあいだ、年寄りが膝の上に子どもを載せて、小さな手を温めてやるときの「歌」があったというのである。
 「火い火いたもれ/火は無い無いと/あの山越えて/この田へおりて/このうち聞けば/この窪ったみに少しござる」
 これなどは、火が欲しいのだけどないものだから、それを求めて山や田へいくさまに合わせた指折り歌である。しかし、年寄りと小さな子どものあいだに生まれたのは「歌」だけではなかった。
 柳田は、「松毬(まつかさ)」を近畿地方の方言で「チチリ」や「チッチロ」、「チンチラコ」「チンチロリン」というのは、松毬を火に入れておくと、ほかの木の葉が消えたあとまで燻っていて、だし抜けぱっと燃えることに由来するらしいのを例にとり、年寄りと子どもが身近な植物などの名前を、協働でこしらえられるようなことがあったのではないかという。囲炉裏を囲んで年長者と遊びながら、子どもはだんだんと言葉を覚えていき、その言葉の陰に隠れている感覚をさとっていくのだ。

大晦日の晩に、途方もなく大きな火を炉に焚く日本列島の南北にわたる慣習

●「小正月」という時空間

 「全体に人が炉のまわりに集まって暮す時、すなわち正月のあと先には古くからの行事が多く、それがまた小児の経験に刻まれて残るものばかりでした。」
 柳田はこう述べて、炉辺の正月行事のうち「火」と直接に関係のあるものとして、大晦日の晩に、途方もなく大きな火を炉に焚く日本列島の南北にわたる慣習を紹介する。
 このときには、「屋根裏が見えるほど焚く」などと言い、火事にはならないものの、炉の上に天井からつるした火棚の煤に燃えついて、火の粉が飛び散ることがある。すると「鼻をこすれ、鼻をこすれ」と一同が揃って鼻をこすると火の粉が消えた、と古い書物に書いてあるという。
 このような小さな慣習以外に、伝統社会において子どもがかかわる民俗行事は数多く、「小正月行事」、「人形送り」や「虫送り」、「七夕」、「盆行事」、「十五夜」、「亥の子」や「とうかんや(十日夜)」などがある。

 このうち1月14日頃を中心におこなわれる小正月行事は、農作物の豊作を予め祝う儀礼であり、また本来は旧暦7月の「お盆」と同様に、一年を二分する「祖先祭祀」としての性格を持つものだった。
 小正月行事には、豊作を祈る「繭玉」「アワボ」作り、子どもたちが家々に祝福を与える「カセドリ」「パカパカ」「ホウジャリ」、古い神事形態を伝える仮小屋での「鳥追いや「ドンド焼き」などさまざまな行事がある。
 カセドリ、パカパカ、ホウジャリで、子どもたちは正月14日の夜、棒で升(ます)を叩いて囃(はや)しながら、家々を訪れる。この行事で子どもたちは、作っておいた「縁起物」を差し出したり、縁起の良い囃し声を掛けたりして、餅・菓子やお金をもらう。この行事で子どもたちが蓑・笠を付けて仮装したり、姿を見せないようにしたりするのは、子どもたちに小正月の夜に家々を訪れ、祝福を与える「神」としての性格が与えられているからである。

●「神聖」なる火の行使

 「神」としての子どもたちは、「火」の獲得と制御にまつわり、年の節目を表す行事でも大きな役割を果たしてきた。
 小正月行事のうち、「火」が重要な意味を担っているのは、小正月を締めくくる「ドンド焼き」である。ドンド焼きは、トンド、左義長、サイト焼き、ホッケンギョウ、三九郎などともいう。正月は盆と同じ「魂祭」でもあり、亡者への供養のために火祭りをおこなう意味で盆の迎え火や送り火にあたる。

 正月の松飾りや注連縄、ダルマなどを子どもたちが各家庭を回って集めて、木や竹を柱とした周りに積み上げ、道祖神の近くや河原など村里の決まったところで焼くことが多い。また子どもたちが前夜から木や藁で小屋を造り、飲食をともにして遊び、最後に小屋を焼き払うところもある。
 多くの地域では、火にあたると丈夫になるとか、その火で餅や、上新粉で繭玉に形作った小さな団子を焼いて食べたり、灰を体にまぶしたりすると病気をしないという火の信仰が伝承されている。つまりその火は、神聖な火とされてきたのだが、子どもは火によって守られるとともに、火を行使する経験を積むことを促されてきたのだ。

●「火」との関係を見直すために

 ここまで見てきて、火と子どもの民俗的関係についてさまざまなことがわかった。
 囲炉裏の火を囲むことは、有史以前の人びとの記憶を宿す行為だったこと。囲炉裏の火の前で子どもの成長を見守るのは、両親以上に祖父母世代の人びとだったこと。年寄りは子どもために歌をつくり、子どもとともに言葉を生み出してきたこと。
 伝統社会に暮らす子どもは、多くの年中行事で役割を与えられてきたが、とくに小正月行事では火との結びつきが濃かったこと。また小正月行事で燃やされる火は神聖なものであり、子どもは火に庇護されるとともに火を行使したこと。
 こうした伝統社会、民俗的な時空間に伝承されてきた営為は、現在でも受け継がれてはいるものの、限定的な経験になりつつあるだろう。

「祖先祭祀」の行事としての「盆踊り」の復権と見直しを

 柳田国男の『火の昔』は戦時下に、「火はどこから来て、どこへ行くのか」を考えようとした本だったが、子どもも含めたいまの私たちは、火の存在の自明性を疑うことすらない。しかし、暖や明かりが失われてしまう事態が突然訪れることがある。たとえばそれは災害が起きたあとになどだ。
 地震が発生したあとなどには、停電したりガスが止まったりすることがある。すると室内や屋外と灯す「光」や、煮炊きするためのエネルギーの供給が滞る。地震じたいの被害や恐怖もさることながら、私たちが「火」を獲得して以降のあたりまえの生活が送れなくなってしまうのだ。
 しかし、私たちの絶望はさらに深いかもしれない。そこには囲炉裏もなければ、恐怖に怯える子どもと話をする年寄りが、近くにいない場合も多い。このような状況から私たちはどこまで立ち返り、遡って「火」の物語を回復すればよいのだろう。
 私は最近、お盆におこなわれる「祖先祭祀」の行事としての「盆踊り」の復権と見直しを、機会を見つけては唱えている。それを実現するには、新しい都市にはふだんはなにもない空(うつ)ろな広場を中央に設けて、年に一度の盆踊りの場とするべきだなどと主張しているのだ。なにかしらの宗教に属さない、民俗的としか名づけえないこの広場は、本来はお盆と同じ意味を持っていたほかの小正月にも利用できるかもしれない。

 ドンド焼きで子どもたちが正月飾りを集めてきて燃やすための場所。21世紀の現在、そこにはどんなものを集めてくるのがふさわしいだろう。あるいは、年中行事の場としてではなく、都市の真ん中に「大きな囲炉裏」を再現・再演できないものかと妄想してみても許されるのではないだろうか。
 当初の予定より遅れて、今年になって開催されたオリンピックとパラリンピックでも、新しい国立競技場に「聖火」が灯された。しかし、聖火台が設けられていなかったので、開催期間中はお台場の「夢の大橋」という橋の上で、聖火は燃えていた。あの火はギリシア・オリンピアから来たもので、日本の囲炉裏の火やドンド焼きの火とは由来も意味も違うけれど、あの火を「聖なる」火だとして私たちは観ていただろうか。この列島の私たち、わけても子どもたちが守り伝えてきた「聖火」は、小さな広場や街なかにぽっかりできた空き地などで灯されるべきなのかもしれない。