“火が永遠の物語を始める時” — 山尾三省の詩の教え

人間が自然と生きること、暮らすことの素晴らしさ、大切さを語り続けた、詩人の山尾三省。土や草や木、虫や動物、風、そして火。自然を尊び、人間を愛した三省のベストセレクションともいえる詩集『火を焚きなさい』をはじめ、三省の本の編集をいくつも手掛けたアサノタカオさんが、三省の詩に見つけた遊びと火のこころ。

「遊ぶ」ということを深く追い求めた詩人

森羅万象を「遊び」の相のもとにみる

「遊ぶ」ということを深く追い求めた詩人だった。屋久島に家族とともに移り住み、耕し、詩作し、祈る暮らしを送った山尾三省(1938〜2001)の詩やエッセイには、「遊ぶ」という語がしばしば登場する。

 家族ほどよいものは ほかにない
 たのしくお弁当を食べる家族ほどよいものは
 この世界に ふたつとはない

 食べ終わって
 チビちゃんたちは草の中で遊び・・
 春美さんと僕はごろりと仰向けになって 光を浴びた

  ——「青草の中のお弁当」(引用中の傍点は筆者による。以下同)
 
 スイッチョは
 夜になると 黙って部屋の中に遊び・・にくる
 山の秋の夜はとても涼しいから
 戸はぜんぶ閉めておくのだけれど
 どこからか入ってきて
 黙って 針の先ほどの小さい黒い目で ぼくを見る

  ——「スイッチョ」

 詩人は屋久島の豊かな自然の中で子どもたちが草花や木の実、土や水で遊ぶ様子をやさしく見守っている。また森の中の家や畑へ遊びにくる虫たち、猿や鹿としずかに語り合う。山尾三省はこうした野の世界からの闖入者を「おともだち」と特別な親しみを込めて呼ぶことがあった。そんなかれの目には、夜空に浮かぶ月と流れる白雲も、南中するオリオン座の内に並ぶ三つ星も、この世ならぬ大いなる存在がたのしく踊るように遊戯する姿と映った。

 屋久島で自然生活を送りながら、環境を保全する運動にも関わった。その中で山尾三省は「新しいアニミズム」や「生命地域主義(バイオリージョナリズム)」という思想を深めていったのだが、その思想を裏打ちするのは、森羅万象を「遊び」の相のもとにみる詩人らしいまなざしだったと言える。野の中で慎ましやかに生きる動植物と人間が、地火風水と宇宙が遊びによって交わり、同族として共振共鳴し、そこから生まれる個の感情を超えた「喜び」こそが、未来に花開く持続可能な地域社会の源となる。それが、かれが生涯夢見つづけた揺るぎないヴィジョンだった。
 さらに言えば、遊ぶということは、山尾三省の人生観や生活観を深いところで支える哲学的な信念のようなものですらあった。

 古い言葉かも知れないが
 僕は 真理 という言葉の前に
 深く心が震える
 そこに ぼくの一生を 捧げる
 古いことかも知れないが
 僕は そこにひれ伏し そこに泣き
 そこで遊ぶ・・

  ——「個人的なことがら」

 詩人にとって、何かを真剣に求めながら生きることのもっとも純粋なかたちを表現するのが、「遊ぶ」ということばだった。「ココハ愚者ノアソブトコロ 賢者モキタリテ アソブベシ」を、山尾三省は島暮らしのモットーにしたという。したがって詩人の人生哲学において遊ぶことは、畑を耕したり洗濯物を干したり、苦労を伴う日々の仕事をすることとかならずしも矛盾するものではなかった。

人間と自然が組み合うあらたな道を探したいと謙虚に願う人にとって、行方を照らす灯りになる

「火を焚きなさい」という詩のことば

 山尾三省は五十冊近くの著作を世に遺したが、かれの詩の中で広く知られる作品のひとつが「火を焚きなさい」だ。

 山に夕闇がせまる子供達よ
 ほら もう夜が背中まできている
 火を焚きなさい
 お前達の心残りの遊びをやめて
 大昔の心にかえり
 火を焚きなさい

  ――「火を焚きなさい」

 詩人がここで「火を焚きなさい」と言っているのは、子どもたちに薪風呂の湯を沸かすための火を焚きなさい、ということ。屋久島の山尾家では、それが子どもたちの夕べの仕事になっていた。

 少しくらい煙たくたって仕方ない
 がまんして しっかり火を燃やしなさい
 ・
 背後から 夜がお前をすっぽりつつんでいる
 夜がすっぽりとお前をつつんだ時こそ
 不思議の時
 火が 永遠の物語を始める時なのだ

  ――「火を焚きなさい」

「お前達の心残りの遊びをやめて……火を焚きなさい」と語ってはいるが、家の手伝いをする子どもたちに「遊ぶな」と禁じているわけではない。そうではなく、「火を燃やす」という人類が歴史以前の原初の時からつづけてきた仕事には、野の中で遊ぶことをも上回る深い創造の「喜び」があり、生きとし生けるものにとって本当に大切な価値を教える不変の知恵がある、と諭しているのだろう。

 やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き
 必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
 自分の価値を見失ってしまった時
 きっとお前達は 思い出すだろう
 すっぽりと夜につつまれて
 オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを

  ――「火を焚きなさい」

 近年、環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの発言や、「人新世」という考え方が注目され、若い世代を中心に環境問題への関心があらためて高まっている。文明社会が地質や生態に重大な影響を与えたことを一因とする、台風・洪水・猛暑・森林火災などの自然災害が世界各地で発生し、こうした深刻な気候変動や、新型コロナウイルス禍などの苦境に人類社会は直面している。地球規模の環境の存続を揺るがす途方もない危機を前にして、責任ある大人はのちに来るものたちのために何ができるだろうか。
 山尾三省の詩は、「新しいアニミズム」「生命地域主義」を背景にしつつも、環境問題を解決する処方箋のようなものではない。しかし、野の中で遊ぶことや火を焚くことのなつかしさを直感的に思い出させてくれることばにあふれている。そしてそれはきっと、今日の都市的文明の中に暮らしながら人間と自然が組み合うあらたな道を探したいと謙虚に願う人にとって、行方を照らす灯りになるにちがいない。

いまここで受け継ぐことができる教え

 遊ぶことを愛した山尾三省の詩には、ユーモアある「戯れ歌」のような作品がいくつもある。

 ひとつ いろりを焚くこと
 ひとつ いろりを見つめること
 ひとつ いろりで湯を沸かすこと
 ひとつ いろりで大根を煮ること
 ひとつ いろりで小豆を煮ること
 ひとつ いろりで縄文の火を燃やすこと
 ひとつ いろりで二十一世紀を迎えること
 ひとつ いろりをきれいに保つこと
 ひとつ いろりを焚くまえに できれば合掌するか 柏手を打つこと
 ひとつ いろりを絶やさないこと

  ——「任意団体いろり同好会十ケ条」

 詩人はこんな遊び心あることばでも、ちいさな火を焚く世界へと読者を誘ってくれる。先に紹介した「火を焚きなさい」の詩に見られた父親としての威厳らしきものは身を潜め、むしろそうした威厳は、冗談めかした「会則」に込められた自己諧謔の精神によってやわらかく払われている。
「屋久島に家族とともに移り住み、耕し、詩作し、祈る暮らしを送った」と冒頭に記したが、山尾三省は東京・神田生まれの正真正銘の「都会っ子」であり、かれの詩やエッセイを注意深く読み込むと、「田舎暮らし」を過度に理想化することで都市や文明の価値を否定するような安易な語り方を慎重に退けていることがわかる。屋外で焚火をすることが難しければ、たまには部屋でロウソクの火を灯すといい。森や海に居場所を見つけることが難しければ、街の道すじに自分の喫茶店を見つるように。詩人は著作で、そんなことを書き記している。
 火を焚くことは、何も大げさなことではない。都会生活の中で本物の「いろり」を焚くことはできなくても、台所で湯を沸かし、大根や小豆を煮ながら、黄金色に輝く縄文の火を夢想することはできるだろう。昨今はコロナの感染症対策で「手洗い」が奨励されているわけだが、蛇口をひねれば流れ出す水のはるかな循環を思い、両手を洗いながら心の中で合掌することはできる。二十一世紀の情報化社会にあっても、テレビやネットの「天気予報」に頼るのでなく、朝には窓を開けて風を入れ、空を眺めてその日の気象を自身の五感で観測することはできる。ベランダに置いたプランターで自分の土を持つことはできるし、通勤や通学の途中に公園などに寄り道をして、草の生えた道を踏みしめることはできる。

 本当は
 土がそのまま神なのであり
 私たちは それともしらず
 神の上で遊び 仕事をし
 神の上で苦しみ 涙を流していたのだった

  ——「地蔵 その二」

 何も大げさなことではない。子どもたちも大人たちも、一人ひとりが日常の暮らしを送るちいさな場所で土と火と風と水への繊細な感覚を養い、よく遊び、よく仕事をし、人間のものでもあり自然のものでもある世界そのものの喜びや悲しみを日々確かめること。それが、祈りにも似た山尾三省の詩のことばからいまここで受け継ぐことができる、深く豊かな教えだと思う。

【参考文献】
山尾三省『火を焚きなさい——山尾三省の詩のことば』(野草社、2018年)
山尾三省『五月の風——山尾三省の詩のことば』(野草社、2019年)
山尾三省『新版 びろう葉帽子の下で』(野草社、2020年)
山尾三省『新装 アニミズムという希望——講演録 琉球大学の五日間』(野草社、2021年)