ろうそくは未来に残したいものか

マイケル・ファラデー『ロウソクの科学』と和ろうそく職人

  • FEATURE
  • 2021.9.15 WED

リチウムイオン電池の研究でノーベル化学賞受賞を受賞した吉野彰さんが、自分が科学者になった原点として紹介したマイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』。ろうそくと燃焼をめぐる実験から、科学と自然の関わり、あり様を示し、1861年の発売以来160年に渡って科学の心を育んできました。
100年以上に渡り、滋賀で和ろうそくを作り続ける「大與」。4代目の主人である大西巧さんが『ロウソクの科学』と自身のろうそく作りを通して見つめた、ろうそくと火の今と未来。

「この宇宙をまんべんなく支配するもろもろの法則のうちで、ロウソクが見せてくれる現象にかかわりをもたないものは、一つもないといってよいくらいです」

マイケル・ファラデー『ロウソクの科学」

ろうそくは生活に必要なものなのか

 冒頭の言葉を読んだとき、私の心はときめいた。
 初めて読んだのは、ろうそく屋になると決めた春のことで、すべての法則に「関わりをもつ」ものをこれから作って、そしてご飯を食べていくのだと、心が躍ったのを覚えている。

 私たちが作る和ろうそくは、すべて植物からとれる原材料を使用し、灯芯という特別な芯(和紙とい草と真綿でできている)を使っている。「土から上のもの(石油のように地下から掘り起こさない)を燃やす」「手間さえかければ何度も再生することができる」ということが私たちのものづくりの倫理感を支え、それを美しく燃やすために、技術を磨いている。

 しかしながら間もなくして、もはやろうそくは必要とされなくなっている、という現実をつきつけられた。「ファラデーさん、ろうそくってこんなに買ってもらえないものですか」と愚痴をこぼす日が続いた。いい迷惑だったと思う。

 ファラデーはろうそくから科学の素晴らしさ、美しさを説明し、少年少女を魅了した。
「じゃあ俺は」、と思う。
「俺はどうやって和ろうそくの素晴らしさと美しさを伝え、使ってみたいなと思えるところまで持って行くんだよ」。

感じた「火の迫害」

 私が和ろうそくを作る仕事を始めた2000年初頭は、IH式キッチンが普及しはじめ、消防法の厳格化によって、大型商業施設などでろうそくに火を灯すことが一切できなくなっていた。それは、火=危険もの、生活の中に取り入れるには不適合なものという烙印押されたように感じ、それは私たちからすれば、「火の迫害」と言えた。

 人類の手の中から火が消えかけている―。プロメテウスだって、こんな未来は想像しなかったに違いない。「おばあちゃん、危ないからお仏壇にろうそくをあげるのはもうやめときな」と若夫婦が老婆を諭すことや、新築するときに「へぇ。オール電化にしたらこんなに火災保険安いんだ!」ということが全国で起こっていた。
坂を転がるように売上が下がっていった。

 和ろうそくは未来に必要なものなのか。天才ファラデーが持ち出して、これすごいんだぜ、と言ったそれは、もう時代遅れの遺物なのか。

 2011年3月11日。それは突如起こった。大地震による津波が町と田畑を飲み込み、原発が爆発した。
テレビから流れてくる映像が毎日恐ろしかった。終わりのはじまりだと思った。自然の恵みを受けてきた土地に自然が牙を剥いた。一方で、人類が作り上げたエネルギー分野での叡智の地盤がいかに脆弱であったかを思い知らされた。天災と人災がごちゃ混ぜになったこの頃が日本で最も防災とエネルギーについて議論がなされた時だったと思う。自然と人の在り方や、自然と人はこれからどう付き合い、社会を持続させていくのか、考えることをつきつけた。このことを経て、時代遅れの和ろうそくが果たす役割はまだあるのだと思えた。

シンプルな生活を支えるなんの変哲もないろうそくをひたむきに作ることが、私たちの仕事だと思うようになっていった。

吹き返した火の命

 この年、グッドデザイン賞に「お米のろうそく」というプロダクトを出した。

 「お米のろうそく」の原料は、米ぬか油を生成する際に出た産業廃棄物である。産業廃棄物の中の僅かな残りカスの中から、蝋分を抽出している。蝋が固いため燃焼時間は長く、家庭用のものだとほとんど煤を発生させずに燃えてくれる。ろうそく特有のダラダラと外側に垂れだすことも起きない。「お米のろうそく」は、とりわけ刺激さも斬新さもないろうそくだった。私一人がこの変哲もないろうそくに未来を託していた。こういうときこそ、和ろうそくの声が届くと信じた。

 果たして、「お米のろうそく」は中小企業庁長官賞という箔をつけて、グッドデザイン賞を受賞した。

「純粋な植物性であるため、環境にやさしく、蝋の垂れと油煙が少ない点で優れている。日本の生活に根ざした素材、ほとんどは廃棄される素材に着目して機能を見出し、その成分を存分に活かしたことは、今求められている技術の活かし方として評価しました。」
グッドデザイン賞2011 審査委員の評価
http://www.g-mark.org/award/describe/37314

 そして、お米のろうそくは売れた。和ろうそくの市民権を再び取り戻した瞬間だった。

 これを機に大與の背骨はとても強くなった。より持続可能な未来を見るようになったし、仕事を誇れるようになった。よりシンプルに生活の中にある姿を想像しようとした。「そういやファラデーも『あまり装飾されているものはきれいに燃えない』と言ってたっけ」、と思い出した。シンプルな生活を支えるなんの変哲もないろうそくをひたむきに作ることが、私たちの仕事だと思うようになっていった。

火=火事というイメージの根深さ

 それから3年後の2014年に、大與が創業100周年を迎えた。グッドデザイン賞を獲ったからといって、和ろうそくがエネルギーや生活構造の在り方に対して、大きなインパクトを与えたというようなことも結局なかった。ファラデーがロウソクを媒介して科学の素晴らしさを語ったように、ろうそくをもって、未来を語るには、ろうそくとは何か、火とは何かをもっと深く掘らなければいけないと感じていた。オール電化の流れはやっぱり止まることを知らず普及し、どんどん生活の中から消えていく火を、指を咥えて眺めているわけにはいかなかった。

 火=火事という連想が根深いのだな、と感じた。
 しかし、「火と火事と紐付けて火を生活の中から遠ざけること」×「火を使わない方が効率的である」=ろうそくは未来に必要でない、という安直な方程式とその解には、そんな単純なものじゃないだろ、と感覚的に思っていた。
 なぜなら、そもそも、和ろうそくが大活躍していた時代(最盛期は明治初頭)なんて、火事も多かったが、日本家屋のほとんどは木造家屋であったのだ。今よりも家の中に火を入れることがリスキーな時代に、どういう思考(あるいは境地)に至れば、「その不安を受け入れていけたのか」は少なくとも検証する必要がある。仮説でもいいから、当時を生きた人たちの思考回路に触れたいと思った。

十干における兄と弟の関係は、兄に「ありのままの自然」を、弟に「人と自然が共存した姿」をあて、自然のもつ二面性を現している。

丙午(ひのえうま)

 ところで、暦の中に丙午(ひのえうま)というものがある。「丙午年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」といって、出生率が下がるというものだ。江戸期には、「丙午の年は火災が多い」という迷信もあり、要は嫌われ年なのである。
しかし、なぜこんな迷信ができたのか、そもそも「午(馬)」はわかるが、「丙」とは何ぞや。調べたらすぐ出てくるのだが、丙の語源は火の兄(ひのえ)らしい。兄がいるなら、弟もいて、丁(火の弟・ひのと)という。

 これは、中国の十干という思想で、契約書などで、甲は~、乙は~とあるあれだ。あれには十種(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)あって、「甲(木の兄/きのえ)」と「乙(木の弟/きのと)」のように、五行・木火土金水の順番に当てはめて、それぞれ「【木】甲・乙」「【火】丙・丁」「【土】戊・己」「【金】庚・辛」「【水】壬・癸」に兄と弟のペアがいる。これらを総じて、十干と呼んでいる。『鬼滅の刃』に出てくる鬼殺隊の隊号としても使用されていた。

 十干における兄と弟の関係は、兄に「ありのままの自然」を、弟に「人と自然が共存した姿」をあて、自然のもつ二面性を現している。

 火が持ち合わせるこの二面性、兄と弟の関係に着目していきたい。私たちが「火」と一括りにしていたものの中に、実は二面の「火」があった。ありのままの制御できない畏怖すべき火(丙)と、人が工夫することで共存し、恩恵を受ける火(丁)のことだ。つまり、江戸期に広まった「丙午の年は火災が多い」というのは、「火のありのままの姿=火災」というところから来ているのだ。「丙午年の生まれの女性は気性が激しい」という迷信も、「火のありのままの姿」のような馬。つまり、じゃじゃ馬とするところから来ているのだろう。

「灯」

ろうそくは未来に残したいか?

 2014年はこんなことばかりを考えていた。この二面性から「火を家の中に入れた人々の思考」を説明できないだろうか。創業100周年のタイミング。どのように考えられれば向こう100年、人類の手元に火を残すことができるのか。「先人達が火を丙と丁に分けていたこと、それを立証できたなら」。
いろんなことをノートに書き込み、ああでもない、こうでもないとおもむろに「丁」の左側に「火」と書いたところで、「あぁ残してくれていた」…と感慨に耽り、先人達の叡智におそれいりました、と感服した。

 彼らの思考の指先に触れた感覚があり、心が震えた。
今よりももっとプリミティブな道具が多かったひと昔前、みんな手入れして道具を大切にしていた。身を守るため、疎かにすれば牙を剥いてくる自然をなんとか制御できないか、というところから、完全には制御できないけど、これだったらなんとか! という道具を作りあげた。その前提と精神を支えていたのが、十干の思想だったのかもしれない。

 火と人の関係は「灯」がつないでいる。
 火と人、つまり自然と人の適切な在り方を未来へ繋ぐのは人。切り離すのも人なのだ。

 最後に問いたい。

 ろうそくは未来に残したいものですか。