The Creativist

AREA 241 Journal 未来を手づくりする人たち
Chapter 8 Vol.Four
EDO-WAZAO CRAFTSMAN
Tomoki Koharu

小春友樹

TEXT by HAJIME OISHI
PHOTOGRAPHS by KEIKO OISHI
新たな街へと生まれ変わりつつある埼玉県川越市の旧市街。その一角に立つ長屋を工房とする江戸和竿の職人、小春友樹を追いかけ始めて半年の月日が経った。ものづくりを通して街と関わるようになった彼はこう言う――「川越を離れられない。それがなぜなのかわからないんですけど」。ストーリーの最終回となる今回は、川越の音楽好きが集まる〈レレレノレコード〉で小春さんにあらためて話を聞いた。
喜多町弁天長屋を訪れるようになってからの半年間、僕は幾度となく川越を訪れた。小春さんと幾度となく会話を交わすなかで江戸和竿の奥深い世界について話を伺い、実際に和竿を使ってタナゴ釣りにも出かけた。もともとDJとして夜の世界に生きていた小春さんがなぜ和竿を作るようになったのか、その心境の変化は同世代の僕にとっては痛いほど共感できるものだった。

20代の数年間、小春さんはアパレルの会社に勤務していた。服飾の世界に憧れる若者にとって理想の生活であったかもしれないけれど、毎朝満員電車に揺られる生活を送るなかで小春さんは心身を壊してしまう。小春さんは闘病生活を送る傍ら、タナゴやコブナなど小物釣りの世界にのめり込み、やがて江戸和竿という新たな世界へと足を踏み入れることになる。
東京という大都市で暮らしていると、経済成長ばかりが求められる社会のなかであくせくすることに虚しさを感じることがある。確かに睡眠時間を削って働き続ければ、ある程度の経済的な豊かさを得られることもあるだろう。だが、あるとき突然こんな思いが押し寄せてくるのだ。この生活の先にいったい何があるのだろう、と。

僕も20代から30代の数年間、生活のほとんどを仕事に捧げた時期があった。自宅には睡眠のためだけに帰り、たまの休日でも頭の中は仕事のことでいっぱい。そうした時期に培ったスキルで現在も仕事をしているわけで、決してその時間は無駄ではなかったかもしれないけれど、当時の僕はあの生活を続けることはできなかった。それは小春さんも同じだったのだろう。経済的な豊かさよりも精神的な豊かさを求めた結果、小春さんは都心の企業ではなく江戸和竿の職人として生きることを選んだのだ。

ただし、小春さんと僕の大きな違いがあった。それはお互い幼少時代を川越で過ごし、家族のルーツも比較的近いにもかかわらず、小春さんは川越を地元として愛し、僕は地元愛を育むことなく10代で川越を出てしまった。その違いはいったい何だったのだろうか。もう少し深くその理由を知りたくて、小春さんに何度目かのインタヴューを申し込んだ。
取材の場所として小春さんが指定してきたのは川越市連雀町の〈レレレノレコード〉だった。この店はレコード屋であると同時にコーヒーや酒、美味しいカレーを出すカフェでもあって、川越の音楽好きにとっては数少ない溜まり場のひとつだ。店主の小島大補くんは僕も以前から知っているので、リラックスして話すことができるだろう。夕方に小春さんと待ち合わせると、酒を呑めない小春さんはコーヒーを頼み、いつものようにこう話し始めた。

「専門学校があった高田馬場には川越から通ってたので、そのころから池袋や新宿のレゲエクラブに遊びに行っていました。でも、同級生には馬鹿にされてましたね。川越なんて田舎だって。そのころの川越には誇れるものがなかったし、僕自身、早く川越を出たいと思っていました」

東武東上線に乗れば川越から池袋までは30分程度で出れるため、川越の若者たちの多くは都心の学校に通い、大人たちは都心へと通勤する。川越に住みながらもアイデンティティーとしては東京人。そうした住人が多いのが東武東上線沿線の特徴でもある。中野区出身である小春さんの父親もまた、川越に住みながら「俺は東京の人間だから」と口癖のように言っていたという。小春さんは「会社のために都心に行って寝るために川越に帰る。その繰り返しですからね」と言い、「父親は都落ちみたいな感覚だったと思います」と付け加えた。

だが、そうした小春さんの心境に少しずつ変化が生まれ始める。何よりも大きかったのが、川越の街自体が変わり始めたことだ。

「(旧市街の)電柱を地下に埋める工事が進められたり、それまで看板に隠れていた蔵が表に見えるようになったことで、街の雰囲気が変わってきたんですよ。観光客も増えてきて、いい雰囲気になってきたんですね。それが15年ぐらい前。都心の友人からも『川越っていいよね』と言われるようになって。自分自身この街がどうなっていくのか興味が出てきたんです」

川越に住むことを「都落ち」といって嘆いていた小春さんの父親の心情にも変化があったそうで、小春さんは「最近になってちょっと誇らしげなんですよ。うちの彼女に川越のことを自慢しているぐらいで(笑)」と笑う。
小春さんが川越の街とより深く関わるようになったのは、弁天長屋に自身の工房を構えて以降のことだ。メディアに取り上げられる機会も多い小春さんのもとには川越内外の人々がやってくるし、小春さんもまた、〈蔵の会〉に出入りするなど地域活動と関わっている。そうしたなかで見えてきた川越の姿を小春さんはこう話す。

「意外と川越出身じゃない人が多くて、そういう人たちが川越を気に入っているのもびっくりしましたね。飲食業もそうだし、長屋の人も多いんですよ。埼玉県内でも春日部、東松山が地元だったり、よそからやってきた人たちが川越をすごく気に入ってくれて、そのことで気付かされたことはありますね。川越っていい街なんだって」

「なぜ川越に出てくるんでしょうか」
「人と人の距離感がちょうどいいのかもしれませんね。田舎ほどベタベタしてないんだけど、都会ほどサバサバもしてない。干渉しすぎない部分もあるし、その代わり気にもかけてくれる。それが居心地いいのかもしれないですね」

小春さん自身、都心で工房を持とうと思ったこともあるという。だが、わずかな隙間でさえも価値化され、ビジネスのネタにされる都心に対し、川越はまだまだ隙間がある。効率や合理性とはかけ離れた江戸和竿の職人として生きることを決意した小春さんにとって、川越は「ちょうどいい」場所だったのだ。

「都心はやっぱり家賃の問題もあるし、竹林も近くにあるわけじゃない。本当は東京のほうが儲かるんですよ。でも、この先の川越をもうちょい見ていたいんです」
小春さんはそう話し、コーヒーに口をつけた。時刻は夜7時。窓の外はすっかり暗くなっていて、さっきまでひっきりなしに行き来していた観光客の姿はほとんど見えなくなった。これから川越住人だけの時間が始まるのだ。



「大補、コーヒーのおかわりちょうだい」――小春さんはカウンターのなかの大補くんに声をかけた。客と談笑していた大補くんはその声に手をあげ、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。小春さんと大補くんは10年前からの友人。付き合いの長さがちょっとした会話にも表れている。

店内にはコーヒーやカレーの香ばしい香りが漂っていて、ほどよい音量でBGMがかかっている。どうやらBGMのセレクションは大補くんが担当しているようで、いつもセンスのいい音楽がかかっている。大補くんは2016年に〈レレレノレコード〉を始める以前からDJとして活動していて、店に置かれたレコードやCDのセレクションにも彼のセンスが活かされている。古い歌謡曲や再発されたばかりの名盤、知る人ぞ知るアーティストの希少盤などなど、音楽好きにはたまらないラインナップだ。
大補くんは埼玉県岩槻市(現・さいたま市)生まれ。中学生のころ、再婚した母と共に川越へやってきた。川越旧市街の濃い人間関係のもと育ったこともあって、地元愛は小春さん以上に強いようにも見える。仕事がひと段落した大補くんが僕らのテーブルにやってきて、川越への思いを語り始めた。

「自分のなかには川越の街をよくしていきたいという気持ちがめちゃくちゃあるんですよ。川越はむりやり観光地にしちゃった感じもあるし、もっと観光客に還元したほうがいいと思う。観光客に対して取りっぱなしだし、もうちょっと受け入れる強さも必要なんじゃないかな。そういうところから少しずつ変えていったほうがいいと思ってるんですよ」

「単にお金をむしり取るだけではなくて?」
「そうそう。もてなしというか、また来たいと思えるような街にしたい」

大補くんの横で頷いている小春さんにも質問を投げかけてみよう。小春さんも街を良くしたいという気持ちがある?

「うん、やっぱりありますよ。(蔵の会の)福田さんとかお手本になる人がいましたからね。ただ、福田さんたちは私利私欲がなかったけど、俺は私利私欲があるから彼らみたいにはなれないと思うけど(笑)」

小春さんはそう言って笑うが、江戸和竿の職人としての小春さんの活動を発信すること自体、ものづくりの街としての川越の現在を発信することにも繋がるのでは。小春さんは「そうなるといいんですけどね」と呟いたあと、こう続けた。

「ものづくりの街と言われてるけど、そういうイメージってそんなに持たれてないと思うんですよ。大補はここで音楽の場としてのベースを作ってるんで、俺は和竿を通してそういうイメージの発信に貢献できるといいですよね。ひとりひとりの役割があると思う」

川越という街における自分の役割。江戸和竿の職人になる前の小春さんだったら、そんなことを考えることもなかっただろう。大補くんもまた、〈レレレノレコード〉という自分の場を持つことによって、街に対する意識を強めたところがあるようだ。大補くんはこう言う。
「東京だったらもうちょっとシビアだったかもしれないですね。川越だとゆるくて曖昧なことも多いんですよ。そのぶん楽というか。ただ、競争相手がいないのは寂しいですよね。勝手にやってるだけで」
「それは俺もそう。都内にいけば競争相手はいくらでもいるけど、川越には誰もいないですからね」

小春さんもこう続ける。彼らが言うように競争相手がいないということはマイナスな面もあるだろうが、そのぶんマイペースに自分の道を突き進むことができるという側面もある。かつては都心で働き、精神的にも追い詰められてしまった小春さんにとって、川越は職人として成長するうえで理想の環境でもあったのだろう。

「そうですね。川越は……安心するんですよ。池袋から(東武東上線で)和光市に入るあたりでちょっと安心する。俺はもう東京には住めないのかもしれないですよね」

小春さんのそんな言葉に対し、大補くんがこう続ける。

「僕も会社員は無理だったので、ドロップアウトしたような感覚があるんですよ。どうせドロップアウトしたし、と思うと気張らなくて良くなるというか、謙虚にいられるんです」

小春さんや大補くんとの会話を終え、〈レレレノレコード〉を出たころ、時計の針は21時を回っていた。〈レレレノレコード〉は室町時代に創建されたと伝えられる古刹、蓮馨寺の目の前にあって、周囲は寺町の雰囲気を残している。観光客向けの店はほとんど店じまいしており、僕は静かな川越の街をゆっくりと歩いた。

人気は少なく、通りは薄暗い。子供のころ、ひとりで薄暗い旧市街を自転車で走り抜けたときの記憶が蘇ってくる。こんな街、いつか出てやるんだ――そう決意していた少年は、40年近く経ってふたたび同じ場所に帰っていた。郷土愛は誰かに与えられるものなどではなくて、自分自身の心のうちに、みずからの意志で育むものなのだ。小春さんの場合、江戸和竿という伝統工芸に関わることがひとつのきっかけとなった。僕もまた、小春さんたちとの会話を通じて川越という街に対する愛着を深めていた。



「地元の人って川越のことをすごく愛してるんですよね。埼玉で一番ぐらいの感じだと思います。川越まつりに関わってる人たちはみんなそうなんですよ」――小春さんはそう言っていたが、同じような話を数人の川越在住者から聞いた。愛着があったからこそ、少しずつ寂れていく町を変えたかったのかもしれない。こんな川越はいやだ、なんとかしたい。それが原動力となって、川越は少しずつ賑わいを取り戻してきたのだ。
そうだ、川越まつりに行こう――ふとそんな考えがひらめいた。僕も子供のころ何度か訪れたことがあるが、ヤンキーに絡まれたりと、やはりろくな記憶がない。今だったら川越まつりにも違う印象を持つかもしれない。

正式名称を「川越氷川祭」とする川越まつりは、川越藩主ら歴代領主の篤い崇敬を受けてきた氷川神社の例祭だ。囃子隊が乗った巨大な山車が祭りの象徴となっていて、祭りの期間中、旧市街は豪華絢爛な山車が行き交う。2022年10月16日、僕は3年ぶりの開催となった川越まつりへと出かけたのだった。

いつものように関越自動車道を走って川越へと向かう。旧市街は祭りで混雑しているだろうからと、川越駅近くの駐車場を探す。だが、周囲は大混雑。街にはゴミが溢れていて、明らかに荒れている。祭り取材は慣れているのでそんなものだと思いながらも、取材を重ねるなかで自分も少しずつ川越への愛着を含めたこともあるのか、荒れた光景を見て少しだけ胸が痛む。

だが、本川越駅から一番街のほうへ進んでいくと、少しずつ通りのムードが変わってきた。荒れた雰囲気をかき消すかのように祭りの空気が濃くなっていくのだ。例年であれば大通りは出店が立ち並び、若者たちでごった返すが、この年はコロナの感染対策もあって出店が制限されている。そのこともあるのか、鎮主の例大祭としての厳かな空気が充満している。18時から19時までは各町の会所前で宵山の山車が揃う。山車のなかでは囃子が演奏されていて、人々はその演奏にゆったり耳を傾けている。実にいい雰囲気だ。
〈蔵の会〉の事務所は元町一丁目の会所になっている。〈蔵の会〉の秋山さんからそのことを聞いていたので、まずは祭りの前にご挨拶に伺った。
「おつかれさまです!」と声をかけながら2階に上がっていくと、そこには秋山さんがいた。
「あ、大石さん、おつかれさまです。ここから山車が見えるんですよ」
2階から顔を出すと、元町1丁目の巨大な山車が目の前に立ちはだかっている。川越まつりの山車は屋根の上にそれぞれの人形が乗せられていて、それが各山車の特徴となっているが、元町1丁目の場合、牛若丸が乗っている。

19時ちょうど、山車の前で引き手たちが木遣り歌を歌い始めた。これは祭りの始まりの合図であり、声を合わせることによって祭りに向けて団結力をもう一段階高めるという役割もあるのだろう。朗々とした歌声は川越の古いコミュニティーのあり方を見せるものでもあった。その声にひとり感激していると、観客の拍手に押し出されるように山車が動き始めた。いよいよ川越まつりの始まりだ。

〈蔵の会〉の事務所から徒歩1分の弁天長屋にも寄ってみよう。土間のスペースには臨時テーブルが出され、祭り期間だけの酒場が開かれていた。その数日前に話を聞いたチエさんが着物で慌ただしく働いている。「あ、大石さん。いらっしゃい」――まるで馴染みの酒場に寄ったような気分だ。
チエさんと会話をしながら川越の地ビールを飲む。チエさんはこのとき初めて川越まつりを体験したようで、想像以上の賑わいに驚いている様子だった。長屋のある弁天どおりは薄暗いが、そのなかを浴衣姿の子供たちが行き来し、通りの向こうから囃子が聞こえてくる。
ほろ酔いのまま、山車が行き交う一番街をそぞろ歩く。山車の明かりによって蔵造りの建物が照らし出され、闇夜にぼんやりと浮かび上がる。祭りのロケーションとしてはパーフェクトだ。
山車は町ごとに作りが違い、屋根に乗る人形も違う。喜多町は俵藤太、仲町は羅陵王、志多町は弁慶、今成は天鈿女命。僕が育った野田町には1990年に制作された山車があり、八幡太郎義家の人形が乗っている。他の町とは違う、自分たちだけの山車。そこには地域住民のプライドと見栄が反映されている。

ただし、祭りの担い手たちは単に賑やかなものが好きというだけでは務まらない。誰もが休日返上で準備をしてきたはずで、自分たちの住む地域に対する思いがなければ、そうした労力を割くこともない。つまり、祭りには地域に対する住民たちの思いが表れているのだ。そして、そうした思いとは、小春さんをはじめとする弁天長屋の人々や蔵の会の人々、〈レレレノレコード〉の大補くんの心の内に育まれているものでもある。
〈レレレノレコード〉に寄ると、こちらも大繁盛である。常連や観光客が入り乱れながら、楽しそうに酒を呑んでいる。僕もそのなかに紛れ、大補くんと何気ない会話を交わしながら、もう一杯だけ地ビールを呑んだ。川越、いいところだね――そんな言葉が口をついて出た。

街は時間の経過と共に変わってゆく。その一方で、次の世代へと受け継がれていくものもある。川越旧市街の場合、それは「地元」への愛着であり、他の地域からやってきた人々のなかにも育まれつつある。小春さんがなぜ「川越を離れられない」のか、その理由がわかる気がした。ギギギギギ……住人たちのプライドを背負った山車が、音を立てながら進んでいく。

小春友樹/江戸和竿師

1973年、東京生まれ。幼年期より埼玉県川越市在住。服飾メーカー営業職を経て、竿職人の道を目指す。川越市に工房を構える東作系江戸和竿師「寿代作」工房の門を叩き、1年間師事。その後、同市内の「俊秀作」の元へ2年間師事した後、独立。2020年より江戸和竿組合に加入。
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